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悪魔のいた超高速サーキット
アイルトン・セナ・ダ・シルヴァ。いわずと知れた、天才Formula 1(F1)ドライバーだった。
1994年5月1日、サンマリノGP決勝において、イタリア・イモラ・サーキットのタンブレロ・コーナーと名づけられた超高速の左コーナーにクラッシュ、そのまま帰らぬ人になった。彼は生涯で3度のF1ワールド・チャンピオンを獲得した偉大なドライバーであったばかりか、伝説に生きた最高のドライバーであった。この物語は、グランプリ出走161戦目、34歳の若さで亡くなった事故当時から現在もなお世界中の人々を魅了してやまない男、アイルトン・セナについてのものである。

セナはブラジル人だが、その中ではマイノリティーのイタリア系移民だった。面長で色白、美男子だがどこか悲壮感の漂う印象があった。1994年5月1日午後7時45分、搬送先の病院で彼の死亡が確認された。大破したF1カー「ウィリアムズFW16」 のサスペンション・アームがBellのヘルメットのバイザーを貫通して、彼の額を弾丸のように直撃したのが致命傷となった。彼は前頭部及び側頭部の頭蓋骨を複雑骨折しており、脳器官に重大なダメージを負っていた。サスペンション・アームに使われていたCrMo系の特殊鋼は非常に強度の高い材料であるが、許容限界を過ぎると変形せずに脆性的に破壊する。もし、この破片の飛翔する軌道がほんのわずかにずれていたならば、彼はクラッシュしたマシンから這い出してこれたのかもしれない。コースすぐ右脇のコンクリート製ウォールへの激突は、第1戦、第2戦同様のポール・ポジションからスタートして6週目、現地時間で14時17分のことであった。

フォーミュラ・カー (Formula car) は、車輪とドライバーをむき出しにしたレーシング・カーの規格(フォーミュラ)にそって設計された自動車である。問題の1994年には、アクティブ・サスペンション、ライド・ハイト・コントロール、トラクション・コントロール・システム (TCS)、アンチロック・ブレーキ・システム (ABS)、四輪操舵システム (4WS)、フル・オートマチックの禁止といったハイテク・システムの搭載が禁止され、加えて最低車体重量が505kgに軽減された規則(レギュレーション)が設けられた。また、1994年の当時は溝のないツルツルのスリック・タイヤが使用されていた。セナの乗る「ウィリアムズFW16」は、前のモデルのFW14と比べるとリア・サスペンションがカバーで覆われた空力的により抵抗の少ないデザインで、その心臓部は、当時最強と言われたV型10気筒3.5cc、ルノーRS6エンジンを搭載していた。このため、シーズン前の下馬評では、いくつものレースで神業的なドライビング・テクニックを見せるセナがチャンピオン候補ナンバー1と言われていた。ところがシーズン・インすると、マシンの思わぬ欠点が現れ、セナの腕を持ってしても予選でベネトンのミハエル・シューマッハの前に出るのがやっと。前年アラン・プロストとのコンビで何度か優勝も飾っている僚友のデイモン・ヒルに至っては、シューマッハの前に出ることすら出来ない始末であった。FW16は残念ながらFW15まで続いたウイリアムズ・マシンの圧倒的速さを持ってはいなかったのだ。
それでもセナは、1994年の開幕してからの3戦ともポール・ポジションをとった。しかし、第1戦・第2戦ともらしからぬアクシデントによりレース途中のリタイヤという結果であった。これは、このニュー・マシンFW16があまりにもコントロールが難しいためであった。

セナの事故があった問題の第3戦目のサンマリノGPは、史上最悪の週末と呼ばれている。その悪夢は予選からのアクシデントで始まった。予選1日目、ジョーダンのルーベンス・パリチェロがバリアンテ・マルボロコーナーで右に振られてクラッシュ。鼻と胸部・右腕を骨折。そして予選2日目、シムテックのローランド・ラッツウェンバーガーがトサコーナー手前でフロント・ウイングがはずれ、最高速度でウォールにクラッシュ。午後2時15分、搬送先の病院で死亡。セナは事故死した彼に哀悼の意を表するため、翌日の決勝戦においては、彼のマシンのコクピットにラッツェンバーガーの母国オーストリアの国旗を用意していた。恐らく彼は、表彰台(ポディウム)で半旗を掲げるつもりであったのだろう。また、セナはこの予選で、タンブレロ・コーナーの路面の補修状態が悪く凹凸が非常に激しいため、レギュレーション違反で搭載されていたFW16のアクティブ・サスペンションの動作が不安定であり、このため路面の修理状況を大会関係者に問いただしていた。

日曜日の決勝戦レース直前に、セナはドライバーを引退してTVコメンテーターとして現地へ来ていた昨年までのライバルであるアラン・プロストと握手した。穏やかな春の日だった。そして、いよいよ決勝戦のスタート。セナは65回目のポール・ポジションのグリッドにつく。グリーン・シグナルに変わり、レースはスタートした。しかし、レースは、スタート直後から荒れた。
ベネトンのジェイジェイ・レートがエンジン・ストールを起こす。後続マシンは、このマシンを避け、間を縫って走り始る。しかし、ロータスのペドロ・ラミーが避け切れずホーム・ストレート上で追突事故を起こしてしまう。ドライバーに怪我はなかったが、クラッシュ時の破片とロータスのホイールが観客席へ飛び込み、警備員を含む観客の十数名が重軽傷した。ホーム・ストレートからタンブレロ・コーナーにかけたコース上には、事故車の部品の破片が散乱した。この事故直後、ペース・カーが導入され、その後をセナを先頭に各マシンがスロー走行する。追い越しは禁止になり、コースがクリアになるまでペース・カーは走り続けた。

セナはタイヤを温めるため、ジグザグにコース上を走行していた。すぐ後ろにはシューマッハがいる。実は、シューマッハの乗るベネトンB194には、レギュレーション違反のトラクション・コントロール・システムが搭載されていた。やがてペース・カーのライトが消えた。ようやくコースはクリアとなりローリング・スタートとなる。再スタートで、セナとシューマッハは急激にペースを上げる。3番手以下との差はあっという間に開いた。
セナはポール・ポジションから飛び出していく。ポール・ポジションからいち早く飛び出し、最初の数週で2位に圧倒的な差をつけ、あとはその差を維持するのが彼の勝利のスタイルであった。そのため、彼のレースの戦績を振り返れば、レース中の後半に記録されることの多い最速ラップ・タイムの獲得数は19回であり、彼が持つ41回の勝利数、65回のポール・ポジション数と比べると数が少ない。
セナは、コーナリングの際に他のドライバーのようにアクセルを閉じることはせずに、常に回転数を調節しながら運転した。これは進入時の安定性を向上させるとともにコーナー脱出時の早いエンジンの吹き上がりをもたらす。このセナ独特の小刻みなコントロールは「セナ足」と呼ばれ、燃費は多少悪くなるもののコーナーの立ち上がりの加速で差をつける。1989年第12戦イタリアGPでは、予選時にレズモ・コーナーにおいて、マクラーレンMP4/4・ホンダの同僚のアラン・プロストと同じホンダV10エンジンを使っていながら1000回転も高くコーナリングしていたというデータがある。

6周目からセナの乗るFW16は、リヤのライド・ハイト(ロード・クリアランス)がかなり落ちて大きくボトミングを起こすようになっていたとセナの後ろを走っていたシューマッハは語っている。
そして、運命の7周目に入った。
セナとシューマッハは、超高速・左コーナー「タンブレロ」に向かっていく。トップのセナは、マシンを5速から6速へとシフト・アップし、クローネンブルグの看板の前を時速309kmのスピードで通り過ぎた。この取り立てて難しいコーナーとは言えないタンブレロは、タイトで狭いコーナーではあるがコーナーの入り口から出口まで加速して通過していくポイントである。そして、コーナーへ進入してバンプに乗り上げた直後、ステアリングの不調でセナのマシンはコントロール不能になった。この時、FW16に搭載されたテレメトリーのメモリーは、明らかにレギュレーションに違反するパワー・ステアリングがこのマシンに装備されており、その油圧に異常があることを記録している。セナはこの瞬間にマシンの異常に気づいていた。セナのオン・ボード・カメラは、彼が頭を左に傾けて懸命にステアリングを切ろうとしている姿を克明にとらえている。
セナはコントロールを取り戻そうとアクセル開度を50%減少させた。しかし、FW16はすでにコントロール不可能な状況だった。セナはアクセルを完全にオフにしてフル・ブレーキングし、できるだけ鋭角にコンクリート・ウォールへ激突させようと必死でステアリングを回した。マシンのスピンをさせようとしたのだ。しかし、ステアリング・シャフトが破損しているために操作が不能であり、セナのマシンはそのまま直進する形でラン・オフ・エリアを越え、まるで引き寄せられるようにしてコースすぐ右脇のコンクリート・ウォールに激突した。セナの後方2番手につけていたシューマッハのオン・ボード・カメラには、セナがレコード・ラインからはずれ、コンクリート・ウォールに一直線に向かっていく様子がはっきりと映し出されている。セナはステアリングの異常を感じてから激突するまでの1.8秒の間に、211kmまで減速していた。この時のブレーキングの力、減速度は4.3G(Gravity=重力加速度)であったと言われる。ジェット旅客機が離陸する際の加速でさえ0.3Gである。かなりのGがセナを襲ったことになる。
F1マシンが300km/hで走行している時に、いきなりアクセルを戻すと1Gの急減速が起こる。普通の乗用車でどんなに激しい運転をし、胸にシートベルトの跡がついてしまいそうなほど思い切ってブレーキを踏んで急減速をしても、1Gを越えることはない。F1マシンのブレーキには軽量で高強度のカーボン繊維強化カーボンの複合材料が用いられており、ブレーキングで発生する高温の摩擦熱に耐えられる設計となっている。

運命の瞬間。激突によりタイヤが舞い上がり、様々なマシンのパーツが飛び散る。大破してスピンするFW16。跳ね返されたマシンが止まった。後ろの座席シートからセナのヘルメットがガクンッと少しだけ動いたのが見えた。しかし、この時、既にセナの意識は無かった。これきり、セナは、動かなかった。
その凄惨な光景に、しばらく現場で立ち尽くしていたコース・マーシャルによって、FW16のコクピットからセナは運び出された。事故後、コース脇に横たわる保護シートに包まれたセナを救急チームが担架に乗せると、セナが横たわっていた跡には空撮映像からでもハッキリと確認出来るほどの大きな血だまりが残っていた。TV放送していた実況アナウンサーは、「え・・?」と声にならない声を発した。ヘリで病院に緊急搬送されるも、手術の可能性は否定され、夕方、脳死状態に陥った後、心臓停止。 
この間、出来事を時系列に並べれば以下になる。

14:17 タンブレロ・コーナーに激突
15:00頃 ヘリコプターによりボローニャのマジョーレ病院に到着
15:10 脈が再開
15:50 担当医マリア・テレサ・フィランドリ女医が会見し、手術の可能性を否定
17:00 医師団による記者会見でレントゲン結果報告があり、脳死を確認
18:15 病院の司祭アメデオ・ズッフォがセナの病室へ
18:40 フィランドリ女医がセナの心臓停止確認
19:45 アイルトン・セナ死亡

セナの事故後に再開されたレースでは、ウィリアムズ・チームのもう一方のFW16、デイモン・ヒル車のパワー・アシスト装置の機能を解除して出走させた。そして、レース終了後、クラッシュ直前のマシンの挙動が問題視された。事故死かチームのマシンの整備不良等の過失責任が原因なのか司法の手による裁判が開かれた・・・。
問題の事故車FW16は、すぐに検察当局に差し押さえられた。しかし、車に搭載されたテレメトリーは、事故直後にFIAの許可を得た上でマシンを製作したウィリアムズ・チームの手に渡っており、そこで事故原因を究明が行われた。事故から2週間も過ぎてから、イタリアの検察はインターポールを要請し、フランス警察がルノー本社に出向いて押収することでそのテレメトリー・データを手に入れる。ただ、テメレトリー・ボックスはコネクターが破損しており、直接情報を取り出せなかったため、押収できたのはデータがセーブされたメモリーであった。

1997年2月20日から始まった第一審公判の被告席に立ったのは、ウィリアムズ・チーム、グランプリ主催者(FIA)、およびサーキットを運営する会社(SAGIS)から以下の6名である。
(ウィリアムズ・チーム)
フランク・ウィリアムズ チーム代表
パトリック・ヘッド チーム・テクニカル・ディレクター
エイドリアン・ニューウェー 元チーム・マシン・デザイナー
(FIA)
ローランド・ブリューインセラード FISA安全委員
(SAGIS)
フェデリコ・ベンディネッリ 社長
ジョルジョ・ポッジ サーキット・ディレクター

検察当局は、事故原因、すなわち、セナがコントロールを失った理由を、ステアリング・シャフトの破損にあると決定付けた。そして、ステアリング・シャフトの破損の原因は、ウィリアムズ・チームによる改修の不備にあるとした。また、セナが事故直前ブレーキをかけたのにもかかわらず、コース上の凹凸のために十分な減速が出来なかったとして、サーキット側の過失も問うている。

1997年10月23日の公判で、FISA安全委員のローランド・ブリューインセラードは、
「事故が起こるまでは、タンブレロやコース上の凹凸に対してドライバーからの不平は聞かれなかった。」
と反発。また、SAGISの社長、フェデリコ・ベンディネッリも
「コース上の凹凸は事故前後ともにFIAからの改修の指摘はなかった。」
「アクティブ・サスペンションの廃止が致命的な状況を作り出したのではないか。」
と、主張。

ステアリングの改修を要請したのは他でもないセナ自身である。大径ステアリングを好んでいたセナは、空力を追及したFW16のコクピット内が狭くドライビングがしづらいとの不満を持っており、常々ウィリアムズのエンジニアらに改善を要求していた。事故が発生したサンマリノGPのレース直前にも、FW16のコクピット内における足元のクリアランス確保の為、ステアリング・コラム・シャフトの位置変更とその接合溶接が行われた。セナの事故は、ステアリング・シャフトの溶接部が金属疲労により破損したことが原因とされた。

もちろん、チーム側は、これに反論する。1997年10月29日、法廷に出廷したフランク・ウィリアムズは事故原因がステアリングにあるという主張を否定した。
「我々は真相を求めている。事故後テレメトリーを調べ、何度もシミュレーションを行った。その結果、我々はステアリング・コラムは破損していなかったという結論に至った。」
「当時マシン全体をチェックし問題はなくOKがでたのを覚えているが、ステアリングの接合溶接を行うことを決めた。」
ウィリアムズF1チームの共同創設者であり、同チームのエンジニアリング・ディレクターのパトリック・ヘッドは、「裁判当初、私が一つ気になっていたことがある。それは事故当時の走行記録システム(テレメトリー)にはステアリングが機能していたと記されているのに、その後の調査員の報告書では、セナがコースを外れたのは恐らくステアリングが操作不能になっていたからだと結論付けていることだ。」と、語っている。しかし、2週間にわたって、テレメトリーの提出を遅らせ続け、最後には強制的に押収されるという事態の後では、事実は闇の中と言うしかない。

もともと、この裁判は不毛な論争に終始する構造にあった。あまりにも物理的な証拠と証言が食い違った。しかも、裁判は事故原因の追究ではなく、事故の責任の所在を問う形で行われた結果、事故原因の真実が明かされる機会が永遠に失われてしまった。結局、この裁判では、32回の公判に末、同年12月16日に被告6名全員に過失致死罪にはあたらないとして、無罪の判決が下された。1999年には控訴が行われたが、棄却され元の判決が支持された。その後、2003年にイタリアの最高裁が“重大な誤り”があったとして、控訴審の判決を取り消し、審理がやり直されることになる。パトリック・ヘッドとエイドリアン・ニューエイが、再び裁きの場に立たされ、イタリアのモーター・スポーツの将来も試練にさらされることになった。F1が再び裁かれるということで、世界に動揺が走った。

2005年5月27日。セナの事故死の原因が問われていた裁判が11年目にしてようやく終わりを告げる。罪に問われていたのは、当時ウィリアムズのチーフ・デザイナーを務めていたエイドリアン・ニューウィー、及びテクニカル・ディレクターのパトリック・ヘッドの2人。ニューウィーは無罪、ヘッドは出訴期限法により期限切れという結末。事故の真相は分からぬままである。

当初から指摘されていたステアリング。セナの希望でカスタマイズしたステアリングのシャフトの破断から操作不能に。あるいは、事故の前にセーフティー・カーが入ったため、スロー・ペースでタイヤの内圧が下がった上に、更にレギュレーション違反のアクティブ・サスペンションの油圧ダンパーの故障でライド・ハイト(ロード・クリアランス)がゼロになり、バンプでマシン下部をすった際に、マシンの下を流れる空気が遮断されてコントロール不能に。他には、事故後に見つかった、ギア・ボックスの固着。激突してない左リア・サスペンションの破損。様々な事故原因に対する説がある。

1994年シーズン途中から、サンマリノGPのローランド・ラッツェンバーガーとセナの死亡事故、その後のモナコGPのカール・ヴェンドリンガーの重傷事故を受けて、安全向上対策のためレギュレーションの変更があった。フロント・オーバー・ハングのサイズ縮小(ボーテックス・ジェネレーターの禁止)。ディフューザーのサイズ縮小。スキッド・ブロックの追加。ピット・ロードのスピード制限(120km/h)。エア・ボックス部分に穴を設置(ラム圧の低減)。最低車体重量520kgの制限である。

セナ以前にF1GP中(テスト、他カテゴリーのレース中等は除く)に事故死したF1ドライバーは23人。
1954年ドイツGP - ニュルブルクリンクで開催されたドイツGPの予選において、マセラッティのオレフノ・マリモンの事故死をはじめに、1970年代は8人と年々増加の一途をたどった。しかし、事故を防止するための種々のレギュレーションの設定や、軽くて機械的な強度の高いカーボン繊維強化プラスチック(CFRP)・モノコックの採用など材料面の進化から、死亡事故は80年代に2人まで減少した。そして、悪魔のいた超高速サーキット、1994年のローランド・ラッツエンバーガー、セナと続く。F1とは、元来、危険なスポーツである。そう認識すべきであろう。

1994年から11年続いた裁判で、人類は何を学んだのだろう。また、1審から最高裁へとウィリアムズ・チームが勝ち取ったものはなんだったのだろう。そして、検察側は結局何を主張したかったのだろう。
また、我々はこのセナ裁判になにを期待したのであろうか?2~3人のスケープ・ゴートの作業ミス、あるいは設計ミスに起因する事故原因の特定?高速のカーブのドライビングにおける空力工学的な知見?あるいは溶接材料の材料破壊力学に関する情報?より安全なヘルメットに関する知見?F1の巨大なショー・ビジネスにおけるマネー流通の詳細?

結局は、事故の原因はセナのドライビングミスのせい・・・・。
こうしているうちにも、F1自体は何事も無かったように毎年開催され、続いていく・・・。
恐らく、人類が生存競争という本能があるかぎり、人類が最後の一人になるまでモーター・スポーツは続けられていくのであろう。命を賭けた限界への挑戦は、人類の宿命なのだ。そして、2~3人の天才と呼ばれるドライバー達が、同じようにデッドヒートを繰り広げ限界に挑戦し、人々はそれに熱狂する。ネルソン・ピケとナイジェル・マンセル、セナとプロストの熾烈なチャンピオン争い。ミハエル・シューマッハに「最高のライバル」と言わしめたミカ・ハッキネン。歴史は繰り返すのだ。
そして、起こるべくして事故が起こった時、我々はやれやれと頭を振る。我々は人類である限り、こうした過剰な競争による事故は避けられないものと知りつつ、その人類が背負った宿命を呪うのだ。我々はここから決して逃げることはできないのだと。この意味で、イタリアでの裁判は、人類の持つ特質まで踏み込んだ裁判であったと言うことができる。セナの事故は、人類がいつの時代においても戦いの中で進化していく生物であるがゆえに、我々に課せられた避けられない宿命に起因するものであったと・・・。そして、これがイタリアではなく、アメリカや日本での裁判であったのなら、結果は異なり、マシンを構成する材料や空力フォルムに帰着していたかもしれない。その意味で、何ももたらさなかったイタリアの裁判は、皮肉にも人間の本質に迫るものだったと言ってよい。

セナの亡骸は、ブラジル・サンパウロ市にあるモルンビー墓地に葬られた。墓碑銘は「NADA PODE ME SEPARAR DO AMOR DE DEUS(神の愛より我を分かつものなし)」。
「レースをやっていると、人間とはいかに脆い存在かということがわかってくる」。生前のセナの言葉だ。

おわり
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テーマ:モータースポーツ - ジャンル:車・バイク


この記事に対するコメント
収入/支出/収支で30代女性の転職を考える
ある特定の取引による入金があった場合これを収入といい、逆に出金があった場合にこれを支出という http://arabist.ellingtonrecords.com/
【2008/08/31 10:31】 URL | #-[ 編集]


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