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tetujin282828

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ナレェに吹かれて (片足の折れたくめせんにんーバリに行く)
神々の島バリ(2008/02/17)
ホテルから通りをはさんだところにあるサヌールのジャズバーに来ていた。今日はこれが何杯目の酒になるのだろう。大勢の日本人旅行客を乗せた成田11:00発のガルーダ・インドネシア航空の飛行機に搭乗して、ングラ・ライ空港(デンパサール国際空港)へ着いたのは3時間前だった。
Narita-Denpasal(GA881 NRT-DPS)直行便。不死鳥のロゴマークをつけた飛行機は7時間のフライトを終え、「神々の住む島」へ静かに降りたった。飛行中、ダイビングウォッチにつけていたコンパスが南南西に針を示したまま、南の島へ一路向かう航路を指し示していた。夕刻にもかかわらず、溢れんばかりの光を受けて輝く空港建物の赤い瓦屋根が印象的だった。
2月15日のデンパサール空港の滑走路には風がほとんどなく、B744の機体は着陸のショックをほとんど感じられない丁寧なタッチダウンで地面に接触すると速度を落とした。さすがは国際線パイロットと感心する。ぼくのように墜落したりはしない。

飛行機のエアロックが解かれると、南国の息が詰まるような湿った熱気が一気に押し寄せてきた。入国審査を通過して、いよいよ神々との対面。耳なれない民族音楽が空港には流れていた。さっそく、着ていたColumbiaの防寒ジャケットを脱ぎ、ロングTシャツも脱いでオフホワイトのTシャツ1枚に。
当座のお金として、一万円を空港の両替で換金する。レートは82ルピア/円。空港の出口付近には、何軒もExchangeのカウンターが並んでいたのだが、どこも同じレートだった。カウンターの向こうに座った女性が「どこも同じ」と言って、にっこりと笑っている。彼女と目があってしまったので、そのカウンターで両替を済ませた。一万円が82万ルピアへ。10万ルピア札などインドネシアの高額紙幣を手にして、なぜか得したような気分になってしまう。

バリは観光の島だ。だが、バリ島民の約65%は農業で生活している。バリの農業は、火山の涌き水を利用して棚田の3期作が可能であり、水の利用が出来ない高地では、コーヒーやバナナをはじめ野菜や果物などの畑作が行われている。  
バリのヒンドゥー教はインドの神像崇拝とは異なり、普段は天空にいる神は、祭りなどの特定の時にしか寺院の石の座に降臨しない。寺院の入口には、真中で左右に割れたチャンディ・ブンタル「割れ門」がある。バリ島独特の門だ。割れ門が何故こういう形をしているのかはいくつかの説があるが、山の信仰に基づいて「山を切り開くことで神に近づく」というもの、左右の柱が2つの世界を対照させているという説などだ。
外庭は祭礼の準備に使われる空間で、集会場や台所、ガムラン小屋、供物を作る小屋、警報太鼓クルクルの塔などがある。

堅実心合掌
空港の出口で待ち合わせた旅行会社の出迎えは、30歳代の人の良さそうな男だった。名前はグスティ。
車に案内されたぼくは、乗っていたドライバーに効かせ過ぎのエアコンを止めてもらって、車のウィンドウを全開にして出発。助手席で怪訝な顔つきのグスティに、
「地球のために」
と言ったら、彼はにっこり笑った。
彼の歓迎の紋切り型の日本語の挨拶や、ガイドブックに載っているようなバリ滞在中の注意事項についての説明をもそこそこに、インドネシアの経済状態について彼に訊ねると、あまり良い状況ではないとの返事だった。彼は日本語を勉強中だというのだが、簡単な会話なら不自由することがない。
バリの2月は雨季の終わりに近いのだが、このシーズンは日本からの卒業旅行の若者達がバリに押し寄せて、現地の旅行会社は忙しいらしい。
グスティはぼくを車でホテルに送り届けた後も、他の日本人旅行客の出迎えがあるとのことで、夜の19:00過ぎというのに空港へ引き返していった。関空を17:40に離陸して、23:45にバリ島にランディングする便への対応のようだ。この時期、毎日帰宅が深夜の2時、3時になるとグスティはこぼしていた。
彼は旅行会社の社員であるにもかかわらず、ツアーの客のオプショナルツアーのガイド料やコミッションなどで生計を立てているらしい。ガイドの仕事は、いろいろ経費もかかり、実のところは儲けは少ない。だから、生活費を稼ぎ出すためにはガイドの仕事を数多くこなす必要があるとのこと。以前はヨーロッパの旅行客を相手にガイドをやっていたのだが、日本語を勉強して日本人相手に変わったら、英語を使う機会がなくなり英語がほとんど話せなくなったそうだ。だが、ニュアンスが微妙な話になると、日本語で話すよりもあいまいさのない英語の方が理解しやすかった。

彼によれば、彼らの神様はどこにでも降臨するとのことだ。日に3回、その神様にお祈りをささげるのがヒンズー教の決まりだ。ただ、仕事で忙しく、決まった時間に決まった場所でお祈りを捧げられない場合は、日に1回でも良い。お祈りのやり方は、頭をたれ両手を合わせて頭の上に掲げる。右手は仏の象徴で、左手は自分自身。両手を合わせることにより、仏と一体になることをあらわす。祈ることは人それぞれ。我々日本人がやりがちなセルフィッシュなお願いも、聞くだけは聞いてもらえるらしい。
バリ島の神様は、”サンヤンウィディ(Sang Hyang Widi)。この宇宙で唯一の神と信じられている。

サンヤンウィディ
ヒンズー教は世界最古の宗教で、紀元前2500年~3000年にインドで生まれ、紀元4世紀ごろ高僧レシー、アガスチア ピタセガラによってインドネシアに伝わったとされる。7世紀, スマトラを中心にスリウィジャヤ王国などの仏教王国が成立。その後、ジャワを中心にマタラム王国などのヒンズー教王国が次々に現れる。今日でも世界最大の仏教遺跡として、世界から観光客が訪れるボロブドゥール寺院など壮大な建築物や寺院が数多く建立される。
13世紀には、インドネシアの歴史上最も栄光の時代であったとされるマジャパヒト王朝が台頭するも、スマトラ島北部のアチェにアラブから多くのイスラム教徒が商売と布教をかねてやって来て各地にイスラム教が広まる。一方、イスラム教を拒否した人々が新天地を求め、バリ島に移り住んだ。
その後、バリ島にその前からあった全てのものに霊がやどるとされるアニミズムと融合し、バリ独特のバリ・ヒンズー教が広まる。どちらかと言うと伝統的・民族的な制度・慣習に関する教えであり、宗教的・倫理的・社会的な行為の規範すべてがカバーされる。教団組織は存在せず、ウパニシャッド哲学派のように倫理学問として発展。
バリ・ヒンズーの最高神はサンヤンウィディ。ブラマー(火の神様)(創造神)、ウイスノウ(水の神様)(維持神)、シワ(魂あるいは風の神様)(破壊神)が三身一体となった宇宙唯一の神だ。
仏教の教えに共通なのだが、バリ・ヒンズーでも輪廻転生とそれからの解脱を説いていて、宇宙の根本原理であるブラフマンとアートマン(自我)の合一によって解脱ができる。
また、グスティによれば、日本の仏教のような先祖崇拝の教えもあるという。

ミーゴレン
この旅行会社(HIS)のツアーには特典として飲茶のサービスがあった。グスティが、これからその歓迎の飲茶サービスに案内するという。言われるままに連れて行かれると、そこはデューティフリーショップ。巨大なショップの2階に中華料理やインドネシア料理のレストランがあり、買い物ついでに飲茶などの軽食がサービスされるらしい。1時間後にショップの出口でとグスティに言われるが、バリについたばかりのぼくは買い物なぞする気はないし、バックパックを車に預けている上に松葉杖を突いているので、余分な荷物は持つことはできない。買い物をする気がないのだからと、待ち合わせを30分後にしてもらう。

20卓以上あるバリ島特有の立派な彫刻を施した木のテーブルには、3組の日本人客しかおらず、5名ほどいたウェートレスは暇をもてあましていた。飲茶としてインドネシアの焼き鳥サテ アヤム(SateAyam)とビールを注文。日本の焼き鳥と似たような懐かしい味がした。タレは、醤油のベースで甘辛い味がする。付け合せは、イモ系が原料と思うのだが、ひらべったい丸い形で、ぱさつく餅のような淡白な味わいのもの。結局、これがなんだったか今でもわからない。ともに極少量でおやつ程度。十分な食事には程遠い。
すっかり暗くなって、ネオンが瞬きだしたレストランの外の夜景をながめていたら、これからホテルに行ってまたレストランを探して食事に出かけるのが面倒くさくなった。ウエートレスを呼ぶと、やってきた20歳そこそこの女性は日本語を少しだけ理解するらしい。
インドネシア語で書かれているだろうメニューも見ずに、日本語で焼きそばとカクテルのマルガリータを頼むと、まさに希望通りのものを持ってきてくれた。焼きそばも、日本の焼きうどん風のすごく懐かしい味がした。のびてしまった細いうどんのような麺に、たっぷりの野菜。醤油とソースと砂糖を微妙にブレンドすれば、日本でもこの味の再現が可能かもしれない。

時計を見ると約束の19時。マルガリータを一気飲みして、会計をしてもらうと約200,000ルピア。日本円で2500円ぐらい。予想していたよりもずいぶんと高かったのだが、ウェートレスの笑顔が可愛く、気軽に被写体に納まってくれたので無理やり自分を納得。インドネシア料理は辛いというイメージがあったが、料理によっては全く問題なくいけそうだ。沢木耕太郎はその著書「一号線を北上せよ」の中に、言葉が全く通じないホーチミンの屋台で、手まねで注文して食べたフォーのことを書いており、これで食事に困ることはなくなったと感想を述べている。ぼくも、ミーゴレンというこの焼きそばなら、3食でも構わないという気持ちになっていた。ただ、この調子で散財すれば、日本の高級温泉ホテルで湯治するのと費用が変らなくなってしまいそうで多少の不安を感じていた。

ティアーズ・イン・ヘブン
グスティと待ち合わせ場所で落ち合い、車で送ってもらってサヌールの街のゴルフ場のすぐそばのホテルへ到着。ホテルのバリらしい伝統的なつくりの吹き抜けのロビーの脇にあるカウンターバーのところで、生ギターのライブが行われていて、エリック・クラプトンの”ティアーズ・イン・ヘブン”を演奏していた。バリに始めて来た夜のホテルのロビーに流れるその曲は、はるか遠くの南の島へ松葉杖をついてたどり着いたぼくの心をずいぶんと揺さぶった。
♪私は、私の道を探すよ。昼も夜も だって、私は天国に留まることはできないから♪
この曲が、ぼくの片足の旅のテーマソングにぴったりマッチした。神々の島バリ。ぼくはここに留まることはできない。

♪私の名前がわかるだろうか もし天国で君に会えたら。 これまでと同じだろうか もし天国で君に会えたら♪

ホテルのロビーには日本人スタッフのデスクがあって、Sachikoという女性がいろいろな特典やオプションを説明してくれた。だが、ぼくの頭はもうすでにキャパシティオーバーで頭に入りそうも無い。とりあえず、一息つくためには酒が必要のようだ。ここへ来る途中、機内で飲んだワインやコニャック、マルガリータなどがぼくを中途半端に酔わせていた。こうなったら、本格的に飲むしかない。
ロビーでウエルカムドリンクとして手渡されたミックスフルーツジュースを一気飲みし、荷物を部屋に放り込んでチェックイン。
松葉杖のぼくにホテルのスタッフたちはとても気をつかってくれるのだが、ぼくの心は道をはさんで向こうにあるジャズバーに飛んでいた。

なぜバリ?
まずは効きすぎのルームエアコンをOFFにして、部屋に荷物を置くや、すぐさま、ぼくは松葉杖をついてサヌールの夜の街へ繰り出した。バリ島では車とバイクが交通手段の主流で、左側通行の道には多くの車がひしめき合っている。空港からクタを経由してサヌールに至る幹線道路は片道2~3車線なのだが、道行く車は前の車がちょっとでも遅いと、追い越しのため猛烈な車線変更を繰り返し飛ばすから結構スリリングだ。モータリゼーションはのんびりとした神々の島の人々に利便性を与えたのだが、その一方で、世界中の道路がそうであるように、より速い移動を追及するドライバーの焦りも与えたのかもしれない。
ホテルの前の2車線の道路を松葉杖で横断するのは度胸が必要だった。歩行者は日中でもほとんどいないうえに、左折の車やバイクは信号に関係なく横断歩道に突っ込んでくる。信号で停まっているたくさんの車やバイクから注目を浴びつつも、なんとか渡り終えて目指すジャズバーへ。
ジャズバーの店内は、おそらくオーストラリアから来た旅行者であろう年配の白人のカップルたちや、外国のどこの飲み屋にでもいそうな年齢の推定が困難な男どもが、ジャズライブの開演待って飲んでいた。ここのジャズバーはグリルもあって、食事も頼める。
店の奥のカウンターに座ると厨房の奥が見え、何人ものバリニーズが忙しそうに働いていた。カウンターの中いる30歳代と40歳代の2人のバーテンダーに加え、4~5名のシェフやスタッフがいるのだが、ここも客の数と同じぐらいのスタッフ人数だった。先ほどの免税店でのレストランといい、この店といい、どうやら、バリは雇用機会創出のためワークシェアリングが進んでいるのかもしれない。
2人のバーテンダーは、ロシティとナナといった。ともに、ニックネーム。彼らを相手にいろいろな話をしている間に9時になり、ジャズライブが始まった。エレクトリックギターを中心としたドラムスとベースとピアノのカルテット。ギターの音色が南国のムードにマッチしてとても気持ち良い音楽だった。

小一時間の演奏で休憩が入り、ジャズメンたちがカウンターにやってきて、それぞれビールで一休みしていた。こんな時に、ミュージッシャンの彼らと話をするチャンスなのだが、ぼくは一つ離れたイスにいつの間にか腰掛けていた女性との会話で盛り上がっていて、彼らと話すチャンスを逃してしまっていた。

「Do you come here, many times?」
「あのっ、私は日本人です」
「ごめん。この店のミュージッシャンは毎日変るんですか?」
彼女が店のスタッフたちにインドネシア語で話しかけていたから、ぼくは彼女の顔も見ずに、バリの女性と思ってしまっていたのだった。
彼女は笑って答えてくれた。
「ミュージッシャンは毎日変るようだけど、今日の人たちは本格的なジャズメンと彼が言ってましたよ」
彼女の視線をたどると、カウンターの一番隅っこのイスに日本人の男性がいつの間にか腰掛けてビールのジョッキを傾けていた。目が合って彼と会釈をかわしたのだが、彼は定年退職後、生活費の安いバリで優雅なシニア生活を送っているロングスティ年金生活者だった。そして、彼女もバリの魅力に取り付かれて、何度もバリに遊びに来ているリピーターなのだそうだ。

「ぼくは現在、病院から一時保釈されてリハビリ中。さっき、バリについたばかりなんだ」
右手についたままの病院のIDタグを見せながら言うぼくに、彼女はカウンターの隅に置いておいた松葉杖に目をやり呆れて言った。
「よく飛行機に乗れましたね。それで(酒を)飲んでも大丈夫なんですか?」
「大丈夫も何も、飛行機に乗ってからすっと飲んでいるけど、今のところ大丈夫みたい」
と答えると彼女はケラケラ笑っていた。

バリに来る日本人は2種類いる。インドネシア語、あるいは、バリニーズを覚えバリの日常生活にどっぷり浸るタイプと、日本語以外は言葉を全く発せずに日本語の通る場所にしか行かないタイプの2種類だ。旅行スタイルの違いなのだが、ぼくはこの旅行で、なぜこうもバリに引き付けられる前者の人々がいるのか、そのバリの魅力を少しでも自分なりに理解してみようと思っていた。

ハンディキャッパーの出国
松葉杖で出国。ハンディキャッパーは、出国審査の際に車椅子を空港で借りることができるらしい。車椅子を借りた場合は、飛行機に搭乗するまで障害者用の優先サービスを受けられるようだ。だが、残念ながら松葉杖の場合はその優先権を失い、健常者と同じように自分で行動しなければならない。それでも杖を突いて歩いていると、空港の職員が人であふれている手荷物検査のところまで、人ごみを掻き分け列の順番を飛ばして連れて行ってくれた。
彼が面倒を見れるのはここまでと言う。手荷物のX線検査の先の出国審査は、プライオリティなしで列に並ばなければならない。X線手荷物検査はアルミ製の松葉杖も検査される。したがって、金属探知機のゲートをケンケンで通過。どうやら、足首に埋め込んだチタン製のプレートは探知機に引っかからないようだ。はでに片足で飛び跳ねてゲートをくぐると、係員が笑顔でOKと言ってくれる。
脱いだジャケットや、ウエストポーチ、ダイバーズウォッチなどを再び身につけて出国審査の窓口へ。カウンターの向こうの愛想のない係員にあごで向こうへと言われて晴れて出国。パスポートに成田の出国スタンプが増えた。
搭乗ゲートの待合室では、ゲートに近いイスにプライオリティシートが設定されていた。にわかハンディキャッパーのぼくとしては、普通のイスとどちらに座れば良いのかわからずに、プライオリティシートに隣接した普通のイスに腰掛けてボーディングを待つ。そしたら、「優先搭乗にしましょうか」とグランドアテンダントが親切に声を掛けてくれた。別に席に着くまで問題があるわけじゃないので丁寧に断り、搭乗の順番待ちを。

ハンディキャッパーの搭乗
飛行機の前の方に席を取ってくれたガルーダインドネシア航空の好意で、ぼくの席はエコノミー席の中央列の先頭で通路側。ほぼ満席の機内だったが隣は空席。おかげで、隣の人がトイレに立つ際にイスから立ち上がる必要も無く、ぼくは快適な空の旅を楽しむことができた。
フライト中は松葉杖が危ないので、キャビンアテンダントに預けることになる。

「フライト中は危ないから、松葉杖を預かるわよ」
「でも、トイレに行く時に松葉杖が必要なんすけど」
「大丈夫。私が連れてってあげる」
と、こんな会話をバリニーズのチャーミングなキャビンアテンダント(CA)としたのだが、いざ、トイレに立つ時にたまたま通りかかった別のCAに頼んだらすぐに話が通じた。
「松葉杖が必要なんすけど・・・・・・」
「トイレに行くのね」
ぼくの席からはビジネストクラスのトイレのほうが近かったのでそちらに案内してもらった上に、彼女はぼくがトイレから出るまで側で待っててくれていた。彼女に記念に写真を撮っても良いかとたずねるとにっこり笑って、他のCAにシャッターを頼んで一緒に写真に写ってくれた。飛行機はフィリピン上空を通過。もうすぐ赤道を超え神々の住む島へ到着するのだが、ぼくは雲の上で天使のようなCA達といろいろな会話をしていた。CAとこんなに話ができるのも松葉杖のおかげ。
彼女たちは月に5回ほどNarita-Denpasalの往復勤務があるらしい。TokyoとBalli(Bali?)ではこの時期、20℃以上の気温差があり大変だろうと心配すると、雨期のバリは陽が出ているときとスコールの間で温度変化が大きいから気をつけてねと逆にこっちを心配してくれていた。

ぼくのバリスタイル
結局、はじめてのバリの夜に行ったジャズバーで、いつもなら深夜までのところを、まだ22時なのにすっかり酔いが回ってしまった。飛行機の長旅の疲れと、その日の朝は5時に起床して成田へ向かったこと、1時間の時差があることなどが原因なのかもしれない。起きていることに我慢の限界を感じてホテルに帰ることに。
異国の地で会ったのも一つの縁ということで、バリニーズと間違えてしまったお詫びもかねて、隣で飲んでいた日本人女性のビール代と合わせて飲み代を払ったのだが、例によってあまりにも桁が大きすぎてどの札がその金額に相当するのかすぐには分らない。約20万ルピアだったから日本円で2500円ぐらいだろう。ジャズの生演奏を聴けて、この値段ならかなり安い。

インドネシアはイスラム教によりお酒を飲めないのだが、ヒンドゥー教が多いバリではお酒を飲むことができる。バリの地酒に、発酵させた米とココナッツを蒸留して造られたアラックというスピリッツがある。非常に強烈な癖があり、テキーラ以上の味だ。アルコール度数は40度。しかし銘柄がいくつかあり、飲みやすいものもあるらしい。このアラックは、紀元前800年頃には既に飲まれていたといわれるエジプト発祥の世界最古の蒸留酒。アラブ圏では禁断の酒として親しまれ、日本では江戸時代に南蛮渡来の薬用酒 として珍重された幻の銘酒だ。
元々はナツメヤシ(デーツ)から作られていたのだが、蒸留技術が広まる過程で米・ココヤシ・砂糖きび・キャッサバなど様々な原料から作られるようになった。アラックはアラビア語で、蒸留の際に出る水滴を模した“汗:araq”を意味する。バリの人々は宗教上の理由から酒はあまり飲まないのだが、バーテンダーが勧めてくれたアラックの飲み方は、ストレートにライムが絞ってあった。これがぼくのバリスタイルに。
隣の女性が飲んでいたピルスナータイプのビール。これが有名なビンタンビールだ。
1929年からオランダのハイネケン社がインドネシアでビールの販売を始めたのだが、その後会社が国営化になり倒産。そして、 P.T. Multi Bintangが出来た。このため、ビンタンビールは、ハイネケンビールのデザインに似ている。ビンタンとはインドネシア語で「星」という意味であり、ビールのラベルに赤い一つ星があしらわれている。味わいは苦味の少ないスッキリとした喉越しで、ほのかな甘味も感じられる。地元のスーパーで買えばビンタンビール(350ml)が100円程度、アラックは1200円程度。なお、大き目のスーパーでは、フランスのワインやスコッチなども売っているが、日本で買うのと同じぐらいの金額でバリにしてはかなり高い。日本のイイチコ(焼酎)も見かけたが、日本円で3000円ぐらい。(・・・・・・だから、バリで飲むジンやウォッカ、ラムベースのカクテルが高いんだ!)
地ワインとしてはHATTEN(ハッテンワイン)があり、島北部でとれる葡萄で作られている。種類も豊富で各スーパーでも購入可能。値段は5万RP(600円)位でハッテンワイン専門のSHOPもある。

このジャズバーには、後、何回来ることになるのだろう。ぼくの一つのバリスタイルは、とにかくバリを理解するため、バリニーズと会話すること。それから、地球のために、無駄なエアコンの駆動は排除すること。こんな旅のスタイルが、バリに到着した初日にぼくの中で出来上がっていた。

精霊達が舞い降りる
昨夜、部屋に入るなりエアコンを止めたため、さすがに明け方には暑くて目が覚めた。これからのホテルには、アンチエアコンのオプションがつくことはないのだろうか?「セイブ・ジ・アース」。ホテルのサービスはそのままに、エアコンなどエネルギーの無駄をできるだけ省くオプション。それを実現するには、セキュリティやプライバシーの保護の問題を解決しなければならないのだろうが、カーテンも窓も開け放して眠れるようなサービスがあれば、宿泊費が多少高くてもぼくはかまわない。

雨季のバリの朝は最高だった。一雨ごとに清められる研ぎ澄まされた空気。朝の光の中に、きっと精霊達がたくさん舞い降りているのだろう。ゆったりとした時間に身を置く幸せ。言葉に表すことが出来そうもない。
朝の光がカーテンの隙間を通して柔らかくまどろんでいる。キングサイズのベッドから抜け出して、カーテンを開けて部屋の窓から中庭のプールを眺めるとそこは光の世界だった。
昨夜、ホテルの吹き抜けの廊下から眺めた遠くの庭の暗がりから、トッケイと思われるトカゲの鳴き声が聞こえたのが、かなり昔のことのように思い出される。夜間、廊下には大きな照明はなく、ドアナンバーの所とかにほのかな明かりがあるのみなのだが、朝の廊下から見る景色はまぶしい光の精霊であふれていた。

汗だくで寝ていたため、まずはシャワーを浴びる。暖かいシャワーだ。地球環境を考えれば水でも構わないのだが。しかし、ここは素直に温かいシャワーの贅沢を満喫。松葉杖をついて朝食へ。ぼくにとって旅の楽しみの一つはホテルの朝食だ。
エレベーターで1階に降りると正面に中庭の一部が見えて、右手に朝食をサーブするレストランがあった。オープンテラスになった中庭にもテーブルが並べられ、開放的な雰囲気の中で食事ができる。中庭は海の方に向かって伸びていて、植え込まれた木々の向こうにはブルーの水をたたえた気持ちよさそうなプールも見える。

「Selamat pagi セラマパギ」
スタッフが代わる代わる英語で話し掛けてくるなか、覚えたてのインドネシア語で挨拶すると、バリ模様のシャツを着た女性スタッフがとびっきりの笑顔で挨拶を返してくれる。
「pagi pagi パギパギ」

レストランの中は混雑しているようで、オープンテラスの一番奥で中庭がゆっくり見渡せるテーブルに案内された。そばのテーブルでは、オーストラリアの老夫婦や若いカップルたちが食事をしていた。
朝食はビュッフェスタイル。松葉杖のため皿を運べないぼくのために、先ほどの素敵な女性スタッフがぼくの代わりに料理を取り分けて運んでくれる。山盛りフルーツに、しぼりたてのオレンジジュースとマンゴージュース。たくさんの種類のペーストリー。どれもバターが効いていて美味だ。おまけにチーズがたっぷりのミックスオムレツと、カリカリに焼いたベーコン。そしてフィルターでドリップしたバリコーヒー。とても食べ切れそうもないぐらい皿の上に乗っかっているのだが、「いっぱい食べないと足が良くならないわよ」との彼女のメッセージと受け取り、ありがたくすべて完食する。
食後のドリップでいれたバリコーヒー。カフェオーレで楽しんだが、これがまた格別の味だった。香りが良く日本人好みのテイストだった。このコーヒーだけでもバリに来たかいがあったかも知れない。
そして、ホテルに滞在中、彼女と会話をするのが毎朝の楽しみとなった。
「terima kasih テリマカシ」
「Sama Sama サマサマ」
ありがとうの言葉を伝えると、輝くような笑顔。丁寧な指先、優雅な物腰。 その洗練されたゆったりとした動作に見ほれ、ついこちらまでのんびりしてしまう。 今日はこのまま一日中ぼんやりしていようかと、そんな気分にもなってみたり。
健康的で気持ちのいい一日がこうして始まる。

プールサイドで
朝食が終わってホテルの部屋へ戻る途中に、空中廊下とでも言うようなオープンな廊下からプールを見る。雨季のうす曇の空を通して、なお溢れる陽が射していて、気の早い一組のオージーの老夫婦がデッキチェアの上で寝そべっていた。
負けじと大急ぎで部屋に戻り、水着に着替えて松葉杖をつきながらプールサイドへ。プールの水面で反射した光がきらめいて、プールサイドの熱帯樹木の間からは小鳥の鳴き声などが聞こえ本当に気持ちが良い。
その昔、サヌールの魔法使いは、クルンクンの魔術師との戦いで、真夜中の空中に火の玉を放ち敵を攻撃したらしい。そんな伝説ロマンを持ち出すまでもなく、光あふれるプールサイドでは、神々や精霊の息吹や、自然界の鼓動を感じることができるような気がする。ぬき手をきってカエル足で進むと、傷めた足でも泳げないことはない。でも、まだ怖いので、思い切り水を蹴るわけにはいかない。ゆっくり、遠泳のつもりで軽く流すと、その横をオージーの老婦人の巨大な肉体が水をばちゃばちゃ豪快に跳ね飛ばしながら泳いでいった。

しばらくして、プールサイドの反対側に韓国のギャル2人組がやってきた。カラフル色だが、おとなし目の形のビキニを着ていて、ぼくの目を楽しませてくれる。話をすると1週間の休暇を終えて、今晩、韓国へ帰ってしまうらしい。
さらに、生後3ヶ月の女の子を連れたオージーの若夫婦がやってくる。父親に抱かれてプールに入った女の子があまりにもかわいらしいので、写真を撮ってよいかと聞くと2人でポーズ。彼らのしぐさのあまりのおかしさに、ファインダーをのぞいていたぼくは思わず吹き出してしまった。

しばらく、プールでまったりと思っていたら、雨がポツリポツリ。空を見上げると、さほど暗いわけではないのだが、雨粒は次第に大きくなってくる。ビーチチェアに寝転んで、松本清張の文庫本を読んでいたぼくは、さっさとプールサイドから撤収。オージー老夫婦をはじめ、プールサイドで日光浴していた他の客たちもあわてて部屋に帰っていった。
部屋から、雨のそぼ降る中庭をながめつつ、さて、これからどうしたものかと思案していたら、ドアがノックされベッドメイクが告げられる。
10分ぐらいで終わるというボーイさんに、どこかで時間をつぶしているからと答えてぼくは部屋を出た。
ジムかマッサージでリフレッシュでもしようかと。

マッサージ
もともと、肉体的快楽には無頓着で、もっぱら、映画で散財したりと精神的な快楽を追求する傾向があったのだが、生まれてはじめてのマッサージを受けてみることにした。宿泊客は10%のディスカウントがあり、2時間で22US$らしい。日本円にして2500円程度か。安いんだろうか?
ホテルの廊下のSPAの方向を示している矢印に沿って、それらしきフロアにたどり着くも、広いホールは無人の上に薄暗く、どこに受付があるのかわからない。恐らくこっちだろうと小さい部屋が両側に並ぶ廊下を歩いていくと、インドネシアの衣装をまとった男女が5人、受付のところで談笑していた。若い3人の女性が従業員で、2人の年配の男が地元の客だろうと思っていたら全員が従業員。しかも、ぼくをマッサージしてくれる女性は別にいた。
年の頃、20歳そこそこのその若い女性は、キンタマニ出身でホテルの従業員宿舎に住んでいるらしい。彼女に地元のおいしいレストランを紹介してもらおうと聞いてみたのだが、彼女は近所で外食をしたことがないとのこと。

さて、マッサージは、筋肉に沿って揉み解すバリ式(と彼女は言っていた)のものだった。うつぶせになったぼくの痛めた方の足から始まって、足が終わると手や肩に移る。うつぶせになった枕には穴が開いていて、その真下に花を浮かべた器が置いてあった。

実は彼女が若く、あまりにも美人だったので、ぼくはドギマギしていた。
インドネシア独特の模様の入ったサリーを渡され、服はすべて脱いだ上に紙のパンツを着けさせられる。
「今、脱ぐの?」
と着ていたTシャツの裾に手を掛けながら聞くと
「私が出て行ってから」
と彼女は笑いながら答える。
「着替え終わったら呼んでね」
と言うが、先ごろ病院で慣れ親しんだコールボタンが見当たらない。
どうやって呼ぶのかと聞いたところ、部屋のドアを内側からノックするだけで良いらしい。
紙のパンツに履き替えて、サリーで下半身を隠してドアをノック。そしてドアを開けようとすると、ドアの外ではすでに彼女が待っていた。
いよいよ、マッサージ開始だ。

まずは、かすかにレモンの香りのするティーをご馳走になる。控えめのレモンの香りと甘さがうれしい。
その後、部屋の奥にある浴槽のそばに置かれた洗面器に案内され、彼女がその中にお湯を張ったから、手を洗えと言う意味かなと思ったらどうも違うようだ。「足だ」と言われた。
洗面器に足を突っ込んで洗おうとしたら、彼女にまた怒られた。どうやら、洗うのは彼女の役目らしい。バスソルトの入った洗面器のお湯で軽石でさっとこすって足を洗い終えると、マッサージベッドに彼女の手を借りて移動する。腰に巻いたサリーはほどかれ、うつぶせのぼくの体に掛けられた。
いよいよ、オイルを手に取った彼女のマッサージが始まる。
良い匂いのするマッサージオイル。ベトつくことはなく、マッサージのあともサラサラしているから、たぶんヤシ油かと思ったら正解だった。くすぐったがり屋のぼくは、子供の頃からマッサージと言うものが苦手だったが、彼女のマッサージは的確で非常に気持ちがよく、筋肉の一本一本がほぐれて行くのが実感できるような気がした。

マッサージの間、ぼくらはいろんな話をしていた。と言っても、主に質問をするのはぼくで、彼女がそれに対して一生懸命考えながら答えてくれていたのだが。毎日のお祈りに何をお願いしているのか聞いてみたら、彼女は笑って答えてくれなかった。きっと、人に言えないような恥ずかしいことを祈っているのかもしれない・・・・・・なんて。

マッサージが終わると、シャワーを浴びて着替えをし、最初と同じようにその間、外に出ていた彼女を呼ぶ。再びやって来た彼女とお別れの挨拶をして、記念に写真を一緒に撮る。明日(火曜日)は、彼女の仕事が休みなのだそうだ。休みの日は車で1時間ほどの家族の住む田舎のキンタマーニに里帰りしてのんびりと過ごすとのこと。どこの国でも、家族の元が一番だ。休みの日のボーイフレンドとのデートはおあずけなのかもしれない。

さて、脱臼骨折して1ヶ月も経つと言うのに、いまだに腫れの引かない右足。でも、最近は面倒で、包帯も消炎剤を塗ることもしていないため、日常生活で足を下げた生活をしていると、足がパンパンに腫れてくる。手術した箇所に、むやみに力をかけるのは怖くてできないのだが、そんな状態でもうまくマッサージをしてもらえた。
特に浮腫んだ足についてはマッサージは非常に気持ちが良く、マッサージにより血行が良くなるため、炎症している箇所の治癒効果は高いだろう。バリにいる間、もう一度、今度は消炎剤を携えてマッサージしてもらおうと思っていた。

サンセットディナークルーズ
数あるオプショナルツアーの中で、これだけは行ってみたいと日本を出る前から決めていた。雨季に当たるこの時期。気まぐれなスコールを覚悟しなければならないのだが、骨折した足に不安を抱えている今、少々天気が悪くても動けるうちに参加したかった。
ということでバリに着いた翌朝、ホテルのツアーデスクに行き、受付にいた目がキラキラ輝く賢そうなバリニーズの女性に、バリハイクルーズのサンセットディナークルーズを予約。彼女には、この旅が終わるまで、いろいろ世話になった。
船はデンパサールのべノアハーバーから17:45に出港し、20:45に帰港する。デンパサールインドネシア国際空港を横手に見ながら、波の少ないべノア湾内を何度も往復する間に、ビュッフェの食事がもてなされる。そして、何といってもクルージングの最大の呼び物は、パリのナイトクラブを彷彿させるようなナイトショーだ。インドネシアの女性シンガーのライブが聴ける上に、オカマのショーもあるらしい。

ピックアップのため、17:00にホテルのエントランスに現れたのは、TOYOTAのキジャンに乗ったアデサという人の良さそうな30歳前後の若者だった。ロビーのソファーには、何人かの客が他のツアーの送迎待ちで腰掛けていたのだが、やってきた彼は、まっすぐにぼくのところへ来ると、はじけるような笑顔で「バリハイクルーズ?」と聞く。
今、考えれば、1人でツアーを申し込んだ上に、群れたがる日本人観光客たちから離れてポツンと座っていたから、すぐにぼくとわかったのかもしれない。例によって、車に乗り込むや窓を全開に。エアコンは、ドライバーのアデサにはかわいそうだけど止めてもらう。
車は20分ほどでべノアハーバーに到着。途中、ものすごい数の退勤する人々のバイクの群れとすれ違いながら、道路に設けられた検問を抜け、さらに、ハーバーに設けられたゲートをくぐり抜けて桟橋に到着。インドネシア衣装を身にまとった女性から花のレイを首にかけてもらい、受付を済ませるとウェルカムドリンクのもてなしがあった。
ほどなくしてボーディング。そして17:45ジャストに離岸。これで、ぼくは片足に体重をかけてはいけない松葉杖の状態で、タクシー、バス、電車、飛行機、船と、ほぼ主要な乗り物を制覇したことになる。残るは、自転車だ。

船内の移動は、2階のデッキに上がるために狭い階段を登っていかななくてはならないが、松葉杖をついていても特に問題はない。
デッキの先頭に座って日が暮れていく様子を眺めていたら、船のクルー達による救命具のつけ方のインストラクションがあった。

そのクルーの一人の女性ナディアが、松葉杖のハンディキャップを背負いながら、多くの白人グループや、日本や韓国のカップルに混じって、一人だけポツンとデッキの長イスに腰掛けているぼくに、いろいろ気を使って英語で話しかけてくれた。これも、松葉杖ハンディキャッパーの役得だ。彼女は結婚して子供もいるのだが、ロシア語会話の学校へ週に2日ほど行って、ロシア語を勉強中らしい。近年、観光客で増えつつあるロシア人を相手にガイドをしたいという、しっかり者だった。

空は、あいにく曇り空。残念ながら西の空は厚い雲に覆われて夕日は見えない。というよりも、明るく見えた水平線の方向をダイビングウォッチにくっつけてあるコンパスで確かめると、そっちは東。デッキの大勢の観光客は、東の空に顔を向けて日の暮れる様子を楽しんでいた。

クルーズディナー
船のデッキから見る湾内の浅瀬には、数多くの漁船が停泊していた。いつかモルジブで見た、カツオの一本釣りの漁船かもしれない。立ち上がれば船が揺れて海面に落っこちてしまうそうな頼りない小さな船に親子3人で乗り込んで、子供たちが水面を叩いて小魚がピチピチ跳ねている様子を模しているなか、音にだまされて興奮したカツオを、父親が面白いように何匹も吊り上げていたのを思い出した。午前の光を反射してキラキラ光る鏡のような水面で、遠くにシルエットのように浮かんでいたその船が印象的な景色だった。
ここべノア湾内もほとんど風がなく、時おり、国際線の飛行機がジェットエンジンの音と共に夕闇に巨大なシルエットを浮かび上がらせて、海上の夕べは静かに暮れて行った。

ナディアに呼ばれ彼女のエスコートで船室に戻ると、ディナーが始まった。ここでもまた、インドネシアデザインのユニフォームを来たラウンジの女性が、足の悪いぼくの代わりに、いろいろな料理を皿に取り分けて持ってきてくれた。シーフードのアペタイザーに始まって、スパイスの効いたチキンやポークのグリル。そして数種のフルーツ。ランプータンは甘く、ライチに似たような味がして、パパイヤやマンゴーは南国そのものの味がした。
とても、食べきれないと皿に乗った料理の数々を見て思ったのだが、1時間ぐらい時間をかけて食べたら、数個のプチケーキ以外はすべて完食することができた。
せっかく入院中に食事の量を半分に減らしてベストの体重まで落としたのだが、こんなに食べたらまたデブに早戻りだ。気をつけなければいけないかもしれない。

ディナーショー
ショーはインドネシアの若いチャーミングな女性シンガーのライブから始まった。曲のリクエストができると聞いて、一番奥のテーブルにいたぼくは、いくつかのサンセットにふさわしい曲を紙に書いてナディアを通してお願いしたら、そのなかで懐かしいABBAの「ダンシング・クイーン」を歌ってくれた。
ぼくは、ナディアと話しながら80年代のビートを楽しんだのだが、どうやら日本や韓国から来ている若者たちには、あまりノリの良い曲ではなかったかもしれない。

ディスコタイムが始まり、一番ノリの良いのはオーストラリア人たちだった。小さな赤ちゃんを連れた若夫婦のダンナの方は、ショーの間中ノリノリで、大声をあげては狭いキャビンの中を踊り狂っていた。次いで韓国のイモ(ナディアに言わせれば、「イモ」は韓国語で「おばちゃん」のことらしい)が、フロアーの真ん中でちょっとだけビートの合わないステップを踏んでいる。日本の若い女性たちもなかなかのもので、天真爛漫な笑顔を輝かせて控えめにステップを踏む。若者たちの特権だろうが、見ていて気持ちが良い。
ライブの後は、インドネシアの金色の布でできた衣装を着た女性たちの伝統的な踊りに始まって、フレンチカンカンや、ブロードウェイのようなラインダンス。そしてマッチョなボディビルダーたちのポージングパフォーマンス。これに大ウケなのが女性客たち。その一方で、男性客たちは苦い顔をして筋肉ムキムキのニクタイを見ていた。
メインの出し物はドラッグクイーンのショー。一昔前の派手な化粧とセクシーなドレス。どう見ても女性にしか見えない。しかも、知性があふれていて友達が多そうなタイプ。ぼくらは彼女の歌って踊るセクシーなパフォーマンスに酔いしれた。

ショーが終わって、またディスコタイム。はしゃぎまくるオージーと、リズム感がいまいちのコーリアンたちのさわぐ声をよそに、ぼくはナディアとクルーズツアーのことなどをいろいろ大声で話し合っていた。
聞くと、彼女は明日のデイタイムクルーズにアテンドするらしい。しかも、その後、2日間はデイタイムクルーズの仕事はないらしい。彼女は、「リーフクルーズなら、松葉杖でも参加できるし、フィンを着けなければシュノーケリング(スキンダイビング)もできるかも」と言う。
折りよく、大音響のディスコミュージックが終わり、キャビン内にぼくの声とナディアの声が響いた。
「行く。ゼッテェー行く」
「待ってるわよ」

下船の際に、ナディアが明日のツアーの予約のために、ぼくを受け付けに案内してくれた。だが、受付で聞くと料金は正規の85US$。ナディアの紹介でもディスカウントはないらしい。それなら、10%のディスカウントがあるホテルのツアーデスクから予約をとることにしてバリハイクルーズをあとにした。ナディアよ。ごめん。君にコミッションが入ったかも知れないのに・・・・・・。

夜のドライブ
ホテルまでの帰りの車は、迎えに来てくれたのと同じドライバーのアデサが待っていた。ホテルの部屋にサービスのミネラルウォーターが今日は置かれていなかったことを思い出したぼくは、ごく軽い気持ちで彼に、帰りにコンビニに寄ってくれるようにお願いする。
ホテルの建屋の中にはコンビニがあるのだけれど、この時間、開いているかどうか不安だったし、そのうえ、ホテルの部屋の冷蔵庫のミネラルウォーターのボトルは、冷やすために無駄な電気代を使っていて買う気がしない。
アデサは、コンビニに寄ってというぼくのリクエストを笑顔で受け取ると、イグニッションを回して車を発進させた。開け放った車のウィンドウから気持ちよい風が入ってくる。。。・・・・・・車は来た道とは全く違った道を走っていた。
彼に確認すると笑顔で「ノープロブレム」を連発する。

30分過ぎてまだホテルに着かないので、ぼくはもうどうにでもなれと開き直っていた。その間、彼とはいろいろ話をしたのだが、決して悪いことをするような人間に見えなかった。聞けば9歳の男の子と生後3ヶ月の女の赤ちゃんがいるらしい。彼はあまり英語が上手じゃなく、彼の思っていることがうまくしゃべれずに、じれったそうにしている。そして、しきりに、ぼくの英語が上手だとほめてくれる。
そのうち、車はクタへ。ホテルのあるサヌールとは方向が全くちがう。高級ブティックなどが並ぶ道の片側に車がずらっと駐車してある大通りを抜け、ヒンズー教の島というのにあちこちにあるマクドナルドの前を通ってクタ・ゴーギャン通りへ。あふれそうなほど、たくさんの観光客がラフな格好で歩道を闊歩している。歩道の向こうには、店内をライトアップしたショーウィンドウ。
洪水のような人の流れと店の電飾は、大都会の眠らない町を連想させる。
ハードロックカフェを過ぎて海岸沿いの車がたくさん停まっている場所に車を止めると、アデサはここで写真を撮れという。よく意味がわからなかったのだが、とにかく有名なスポットなのかもしれない。地元の駐車係(彼らは、ここで車の整理をしてチップをもらっている)にシャッターを押してもらって、アデサと一緒の写真を撮る。あとで地図を調べてみたのだが、中級クラスのホテルが立地しているだけであり、数年前に爆弾テロのあった場所でもない。何故、アデサが写真を撮れと言ったのか今もなお不明だ。

写真を撮ったあと、さらに車は走り、今度はカルフールという巨大なショッピングセンターへ到着。彼はここでペットボトルのミネラルウォーターを買えると言う。確かに巨大な店だから買えるには違いないが、あまりにも店が巨大すぎて、店の入り口がどっちの方向へ行けば良いのかすら見当がつかない。不安そうにしていると、アデサがチップを渡した駐車場の係員に店の入り口を聞くが、かなりの距離がありそうだ。松葉杖の身には、ペットボトルの水を探して店内をウロウロ探し回るのも厳しく、2人で顔を見合わせて購入を諦めた。
結局、1時間以上、夜のバリ島の繁華街をドライブしてホテルに向かった。ミネラルウォーターは、ホテルの冷蔵庫の100円のボトルを利用することにした。アデサは、ぼくがミネラルウォーターを買えなかったことがとても残念な様子だった。

ホテルに到着して、ぼくは夜のドライブに連れて行ってくれた彼の好意に大いに感謝した。そして、彼の連絡先を紙に書いてもらった。
別れ際、20万ルピア、日本円にして約2500円を彼に渡し、彼の子供たちに日本のおじさんからプレゼントとしてケンタッキーフライドチキンを買ってくれるように頼んだ。とても高い水代になったが、ぼく自身、夜のクタのドライブを満喫できたし、何よりも、今の日本人が忘れてしまっている彼の親切な気持ちが嬉しかったのだ。受けた親切に対し、お金を渡すのは気が引けたし、受け取ってもらえないと思ったのだが、彼はすごく恐縮して、そして最後には受け取ってくれた。
ぼくがインドネシア語を話せたら、彼とは良い友達になっていたかもしれない。

リーフクルーズ(ピックアップ)
翌朝、リーフクルーズのピックアップのための8時の待ち合わせに現れたドライバーは、プナと名乗る40過ぎの陽気な男だった。結局、彼とは長い付き合いになることになる。彼は、そこそこ英語を話すため、会話には全く不自由をしない。
ホテルのロビーのイスに座ってピックアップを待っているぼくに、しばらく様子を伺ってからバリハイクルーズのリーフレットを掲げて見せたのが彼だった。
彼と会うなり、ぼくはいきなり交渉。実は、何に使ったのか、おととい空港に着くなり両替した820,000ルピアがもうすでになくなりかけていたのだ。手持ちが82,000ルピア(1000円)を切ってくると、さすがに物価の安いバリとはいえ心細い。両替はいつでもできるわけではないので、飲み水すら買えなくなってしまう恐れがある。だから、クルーズ前に街のMoney Exchangeに寄ってと。
そして、交渉成立。どっかの両替屋に寄ってくれるとのこと。
約束の待ち合わせ時間を過ぎても、現れない他の日本人客を待っている間、プナはウブドへの車のチャーターを40US$で持ちかけてきた。相場よりも安い。ただ、ぼくはもしウブドに行くのなら、昨日、夜のクタを案内してくれたドライバーのアデサに頼もうと思っていたので、返事を保留にした。ホテルのインフォメーションや、ガイドブックの情報と比較すると、チャーター料金40US$は確かに安いのだが、どうも怪しい。だから、アデサにも聞いてみて、それから決めようと思ったのだ。しかも、アデサの方が生活に苦しそうな印象があり、喜んでもらえそうな気がする。

遅れてきた日本の3人の若者たちを乗せ、車はホテルを出発。昨日のバリハイクルーズ行きの道と違う道と思ったら、ハイアットホテルの玄関で、2人のオージー娘をさらにピックアップ。どおりで、マイクロバスで迎えに来るわけだ。
オージー娘をピックアップするため、 ハイアットホテルの玄関前でドライバー不在になった我々の車に、バックしてきたベンツのバスが衝突するというアクシデントが起こったが、多少、バンパーがへこんだだけでダメージはほとんどなし。事故の処理も、相手のドライバーの名刺をもらい連絡先を確保するだけで、あとでゆっくりと示談交渉ということになった。
助手席に乗ったぼくは車のウィンドウを下ろし、そばで心配そうに見つめるホテルの女性従業員と会話。彼女は笑顔で車のダメージがほとんどないことを教えてくれた。

天国に一番近い島
さて、運良く開いていた両替商に立ち寄り、無事に両替を済ませた後、車はバリハイクルーズへ。
島の人口に比べて圧倒的に多すぎるように見える車やバイク。文明の利器ではあるものの、逃れることのできない交通事故や地球温暖化のデメリットに思いをめぐらせつつ、桟橋のゲートをくぐる。
受付を済ませ乗船すると、昨夜、足の悪いぼくのために特別に食事をサーブしてくれた女性がやってきて再会。さらに、ナディアも顔を見せに来た。彼女は航海中サンデッキにいると言う。ラウンジでコーヒーを飲み干すと、ぼくはサンデッキの階段を松葉杖で登っていった。まもなく出航のサンデッキには、数名の客がいるだけだった。

レンボンガン島へ着くまでの約1時間のクルージングの間、ナディアはぼくをエスコートしてくれた。天気は時おり小雨がぱらつくものの、その合間には薄日が射し、雨季にしてはまずまずの天気だ。というよりも、南国の猛烈な陽射しがない分、天国かもしれない。船は外洋の大きなうねりを乗り越え、波しぶきを上げて高速で進んでいく。
森村桂は、ニューカレドニアを”天国に一番近い島”と形容した。ぼくにとって一番天国に近い島は、顔を合わせると満面の笑みをくれるバリニーズの住む島だ。

船はレンボンガン島の海岸から50mほど沖合いに設けられた浮島に接岸。バナナボートやオプションのダイビング、パラセーリングなどすべてのアクティビティは、この浮島をベースに楽しめる。
ダイビングのオプションを選んだ日本人やオージーたちに羨望のまなざしを向けながら、さっさと水着に着替えたぼくはシュノーケリングの案内を請う。
もともと黒いのだが、さらに見事な日焼けで黒光りする肌をした立派な体格のライフガードが、シュノーケリングのエリアを指差して教えてくれる。そして、足の不自由なぼくを見て、ライフジャケットの着用を勧めてくれるのだが、水中に潜りたいぼくはライフジャケットの着用を渋った。水深10m程度とはいえ、外洋につながっている海はうねりが強く、フロートで区画されたポイントを外れて30mほど岸に向かえば、サーファーが大勢待ち構えているポイントとなる。
波打ち際では1mぐらいの日本で言う大波が白く砕けていて、こいつに捕まっちまったら、今のぼくには命の保障はない。

シュノーケリング
考えてみればわがままな客だ。
「泳げないかもしれない。だけど潜りたい。だから手伝って・・・・・・」
マスクとシュノーケルを受け取ると、ゆっくりシュノーケリング用デッキに設けられたステップをつたい降りて水面へ。
カエル足でフロート沿いに浮島から離れ、水面を覗き込む。下は砂地。透明度は10mそこそこというところだろうか。結構、カレントが速いにもかかわらず、海水はプランクトンで濁り気味のようだ。
手始めにジャックナイフで潜ってみる。片手に水中ハウジングに入れたカメラを持っているため手で水をかけずに、カエル足だけで潜るも沈まない。もともと、カエル足は足を曲げた瞬間、進行方向とは逆のモーメントが働くため、手で水を掻くことなしにカエル足だけで潜っていくのはつらいものがある。浮島近くの水面で、ジタバタしているぼくを見かねたのか、ライフガードの一人がぼくの手を取って、サンゴ礁のある根のポイントまで連れて行ってくれた。

シュノーケリング。ぼくら日本人は、カメラ小僧が多いから、とにかく水中へ潜りたがるようだ。潜ってサンゴの根に取り付き、息が続く限り魚に寄って写真を撮る。一方、オージーたちやコーリアンたちは、水面から水底の地形や魚の群れなどを見て楽しむ。だから、フィンもつけずに、しかも、不自由な足で深く潜ろうとするぼくの行動が理解できないでいるのかもしれない。
サンゴの根にいた魚。沖縄では見かけたことがない鼻の先に角をつけたツマリテングハギやら、横じまのリボンドグラント、クラカケチョウチョウウオ、ツノダシ、クマノミ。ダイバーのアイドルのモンガラカワハギが水底を泳いでいるのを見かけたのだが、そのそばまで潜ることはできなかった。

さらに深く、長く
船で昼食を終えて浮島に戻り、サンデッキで昼寝でもと思ったのだが、やはり、午前中に試したフィンなしでのシュノーケリングが深く潜れなかったことがくやしかった。それに、まだ他の客はランチを楽しんでいる時間だから、シュノーケリングしている客は見当たらず、ライフガードもヒマそうにしている。そこで、午前中に面倒を見てくれたライフガードを捕まえて、潜れなかったことに対するリベンジを告げ、またサポートをお願いした。

シュノーケリングのセットを借りようとデッキに行くと、暇そうなデッキボーイたちに、「どこから来たの?」とか、「足をどうしたの?」とか、いろいろ聞かれて話がはずんでしまい、サポートしてくれるライフガードが途中で会話を止めてくれるまで、ぼくは質問の集中砲火を受けていた。
「今度はフィンをつける」というぼくに、ライフガードは片方だけフィンをくれるのだが、ぼくはもう片方も要求。自己責任で、やれるだけやって見るつもり。
結論から言うと、両足にフィンを着けることでぼくは水中を自由に潜ることができた。体にロープでフロートを結わえつけたライフガードが、フロートの浮力のせいで潜れずにあたふたしているのを尻目に、彼のすぐ傍を大きくフィンを蹴って水底に潜るや、すでに水面に浮上している彼に水底からノープロブレムの合図をして浮上。
彼が本気になってフロートをはずして潜るも、ぼくは更に深いところに潜って魚を追いかけていた。下は砂地。部分的にソフトコーラルがお花畑みたいに群生している。
途中、浮島のデッキボーイたちに昼食のパンを投げてもらい、魚の餌付けを。パンを指でつぶしてばら撒くと、大小、無数の魚たちがやってきて、パンくずを争って食べていた。
後で聞くと、船の上から心配そうに見ていたクルーたちは、ぼくが潜ってから1分以上も浮上しないので、潜るたびにハラハラしていたらしい。後で、10mの水底で魚の写真を撮っていたことを打ち明けると、一躍、ぼくは彼らのヒーローになってしまった。

デッキに上がってから、ライフガードやインストラクターたちに、ダイビングについていろいろ聞いた。日本語ができるというインストラクターが教えてくれたのだが、ダイビングは水深10mほどのところをドリフトするらしい。これまでにウミガメやサメを見かけたことはなく、どうやら、魚は沖縄でよく見かけるネッタイカサゴやカクレクマノミが主なもののようだ。

クルーズランチ
船のランチ。昨夜のディナーとほとんど同じメニューなのだが、今度はナディアがぼくのためにいろいろ料理を選んで運んでくれた。彼女の好意なのだろうが、どうやら持ってきてくれる料理の量は、それをしてくれる女性の体格に比例するらしい。
この旅行で、ホテルの朝食やブッフェスタイルのディナーなど、足の悪いぼくは皿が運べずに、いろいろな人にお世話になった。その大体において、少しだけ無理を承知で取り分けてくれた皿の上の料理を平らげていたのだが、彼女が気前よく持ってきてくれた大盛りの料理には、正直、ギブアップだった。
なにしろ、前菜だけでぼくはお腹一杯になってしまい、グリルした料理においてはその半分も、デザートのフルーツは何とかこなしたものの、その横にデンと並んだ4つのプチケーキはどうしても口に入りそうもなく、彼女に謝るしかなかった。
「いいのよ、気にしないで」
彼女は笑って言ってくれたのだが、彼女の好意を無にしたようで、ぼくはやや気が重かった。

食事中、ザーと来たスコールも止み、ナディアがシュノーケリングに行っておいでと声をかけてきた。ランチは2時までだから、ひと泳ぎしてお腹がすいたら、またランチを食べに来てとのこと。ぼくは目を白黒させて、もう、お腹が一杯でしばらくは何も入りそうもないことを伝えた。

この文章を書いている今、ネットでクルーズのメニューを調べたら次のようになっていた。
-Canapes
Garden Salad, Potato Salad, Pasta Salad, Coleslaw, Waldorf Salad
King Prawns, Smoked Marlin, California Rolls, Breakfast Ham, Cold Roast Chicken, Fresh Bread Rolls

-Hot Selection
Beef Stroganoff, Roast Chicken With Taliwang Sauce, Vegetarian Croquette, Fried Breaded Seafood, Stir Fried Tofu W/ Vegetables, Carved Roast Leg Of Pork, Steamed White Rice, Vegetarian Pasta

-Dessert
Whole Fresh Fruit, Crème Caramel, Selection Of Cakes - Tiramisu, Vanilla Slice, Sliced Fruits

ヒンズー教の地というにもかかわらず、ビーフストロガノフがメニューに入っている。しかも、イスラム教では食べないとされる豚肉の料理も。なぜ、バリで牛肉料理が可能なのか、このツアーを主催しているBali Hai Cruises (バリハイクルーズ社)についてネットで調べてみたのだが、今のところ、有力な情報はわからずじまいだ。

デッキボーイ
船に戻ってコーヒーを飲んでいると、バリニーズの自称40歳というデッキボーイが片言の日本語でいろいろ話しかけてきた。彼も若い頃にオートバイの事故で足の骨を折ったことがあるらしく、さかんにぼくの足を見て「かわいそう」と言ってくれる。
彼の片言の日本語に対し、ぼくの返事が英語なのでいささか妙な感じなのだが、たいてい外国にいる時は、このような言語の組み合わせがお互いに軽いジョークを楽しむことができて都合が良い。

「足はイタイイタイ。でも、こっちはビンビンね」
と握りこぶしを股間の辺りで突き出して見せる彼の卑猥なジョークに声を殺して笑い合っていると、突然、船内にエンジン音が響いた。
時計を見ると、浮島を出航する15:00。ぼくの着替えはまだ浮島のロッカーの中だ。
船に戻る客たちでごった返す渡りデッキを、人の流れに逆らいながら松葉杖で浮島へ戻ろうとすると、ライフガードが「どこへ行くんだ?」と声をかけてくる。着替えがまだロッカーに入ったままと伝えると、傍にいたナディアがぼくからロッカーの鍵を受け取って、大急ぎでロッカーの中から着替えを持ってきてくれた。
間一髪のタイミングで船は浮島を離れ、一路、帰港。
帰りの航路も揺れは結構大きく、行き同様、数人の客が船酔いになったようだ。あのエッチなデッキボーイが、心配してぼくの様子を見に来る。船酔いには彼のマッサージが効果的という話で、行きの船で船酔いしたコーリアンの女の娘は幾分回復したらしい。
ぼくが知っている中国式の指圧を彼にしてあげると、どうもツボにはまったらしく、めちゃくちゃ気持ち良いとヤツははしゃいだ。お世辞なのだろうが、茶目っ気の多い彼との会話は船酔いどころか、スキンダイビングの疲れを吹っ飛ばしてくれていた。

ケンタッキーフライドチキン
船は無事に帰港し、ナディアに連絡先の住所を教えてもらって、ついでに一緒に記念撮影。港で待っていたのは、朝、ホテルでピックアップしてくれたドライバーのプナだった。駐車場には、昨夜のドライバーのアデサも来ており、ぼくに顔を見せに来た。彼に、今夜、電話すると声をかけて、プナの車に乗車。車内には、すでに朝のメンバーが乗車ずみだった。
途中、ハイアットホテルで降りた金髪のオージー娘2人に、
「いい旅を。またね」と手を振って挨拶していたら、プナが笑ってそれを見ていた。
「彼女たち、バナナボートで海に落っこち捲くっていたんだぜ」
プナにそう言うと、彼は大笑い。

ホテルまでの30分のドライブの間に、ぼくは明日のウブドのドライバーはプナに頼むことに決めていた。その理由のひとつには、笑顔のバリニーズに対する警戒心が失せていたこと、もう一つの理由は、これが決め手なのだが、英語になるがコミュニケーションが彼の方が取りやすいことだった。
ホテルについて、明朝、9:00のピックアップのアポイントメントをプナとして別れる。その夜は、また松葉杖をついてホテル前の2車線の道路を横断して、ホテルの近くのケンタッキーフライドチキンに出かけた。地元の家族連れでにぎわうテーブルの片隅で、200円程度のコンボセットを注文。バリの人々は鶏肉の唐揚げが大好きなようだ。
注文したコンボセットは、フライドチキンの細切りにインドネシア風の甘辛いソースをかけたものと、ライスの組み合わせ。なかなかおいしい。地元の人たちは、ご飯を鶏肉と一緒に手で食べるらしいのだが、セットにはプラスチックのフォークがついて来た。一応、手で食べても良いようにだろうか、店内には洗面所が備え付けてある。
これから、食事に困ったら、ケンタッキーフライドチキンも選択肢の一つとして悪くはなさそうだ。

車のチャーター
この旅は、骨折した足のリハビリのための旅であって、決して観光が目的ではない。
とはいえ、せっかくのバリだ。一日中、プールやジムで一人ぼっちというのも、やりきれないような気もする。だから、バリの人々とのふれあいを求めて、松葉杖で行けるところまで行ってみようと思っていた。車をチャーターしているので、いざとなれば観光ポイントだけ降車すればいい。田舎町のウブドでもさほど困難は感じないだろう。
地球の温暖化のことを考えると、できれば車よりもバイクの方が良かった。だが、プナにバイクチャーターができるかどうか聞くと、「それはあまりにもデンジェラス」と言う。確かに、突然の雨には対応できないし、事故った場合にダメージが大きすぎる。でも、5体満足でもう一回バリに来るチャンスがあれば、次回は、ぜひとも自転車に乗ってバリの田舎を旅してみたい。

シャワーを浴びて朝食を終え、部屋に戻ってガイドブックなどを背負い袋に入れているときに、ベッドの脇の電話が鳴った。電話に出ると、昨日のドライバー、プナからだった。
「今日はどうする?」
「9時に待ち合わせでしょ?」
「オレと一緒にウブドに行くの?」
「そのつもりだけど・・・・・・」
昨日の約束の確認の電話。こっちは、てっきり、そのつもりになっていたから驚いた。のんびりとした島だから、こうして互いに約束を確認しあって物事が進んでいくのかもしれない。実は、翌日、彼と別の約束をして、この事前の確認の電話が必要なことを思い知らされることになる。

サヌールの海岸
約束の9時よりも15分前にホテルのロビー行くと、ドライバーのプナはすぐにやってきた。昨日の車とは違い、丸っこいデザインのTOYOTAの2ボックスカー(Yaris)。バリで走っている車の90%は日本車だが、日産キューブのような角ばったデザインの車は少ない。インドネシアでは、丸い形の車が流行っているのかもしれない。
とりあえず、彼と日程の打ち合わせ。今日、見たいものは、サヌールの海岸、ウブドの町並み、バロンダンスとケチャダンスの伝統芸能、ウルワツ寺院。盛りだくさんの予定だが、彼が言うには時間的に問題ないとのこと。
エアコンを止めてもらって窓を全開に。そして、車を走らせサヌール海岸へ。

交差点を渡り、その看板の下をくぐると、道の両側に小さないろんな店が建ち並んでいた。海岸へ続く道の突き当たりに車を止めて、松葉杖で砂浜へ。風は海から陸へわずかに吹いていたが、鏡のような静かな海だった。見渡す限りのインド洋を堪能。
サンゴの白砂の海岸はきれいに掃除されていて、タバコの吸殻はもちろん、目に付くようなごみは全く落ちていない。多くの人々が、この景観を維持するため努力しているのだ。感謝。温暖化の影響で海岸の浸食がだいぶ進行しているというのだが、日本政府の援助で砂が流出しないように護岸整備がされているらしい。そうした努力のおかげで、外洋に面した海岸を潮風を受けながら、のんびりと気持ちよく散歩することができる。

遠くの沖を木造船がゆっくり走っていく。サヌールは、バリの中で最も古くからビーチリゾートとしての開発が始まったところだが、とうの昔に珊瑚は死滅していてダイビングには向かない。だが、サヌールの北の方なら、雨期は東からのうねりでリーフブレークのいい波が立つらしく、サーフィンのポイントとして有名のようだ。

まだ朝早い海岸には、ほとんど人がいなかった。ちょうど朝食の時間帯で、日の出を参拝した人たちが帰って、海辺で遊ぶ人達が出てくる狭間の時間帯なのかもしれない。松葉杖で砂浜をしばらく歩いていく。早々と店を開けたおみやげ売りが声を掛けてくる。このまま海を横目に、ずっと歩き続けたいのだが、その気持ちをなんとか振り切り地元の人と談笑しているプナの元へ。今日は予定が盛りだくさんなのだ。
お土産売りの店で、プナの分も合わせて2本のミネラルウォーターのボトルを買う。1本100円。ホテルの冷蔵庫で、無駄に冷やされたミネラルウォーターは絶対に買う気がしないが、ビーチを綺麗にしてくれているビーチボーイのおじさんなら、多少、高くても気にならない。っていうか、砂浜を平気で汚すようなマナーの悪い日本人や韓国の観光客には、思いっきりボって欲しいと思う。日本人プライス。当然のことだ。その値段を値切るようなヤツらは、まだ頭が幼稚なのだとあざ笑えばよい。
海に向かう道の突端にあった道祖神には、誰が供えてくれたのであろうチャナンが置かれていた。ぼくは、美しいバリニーズの娘がチャナンを供えてお祈りしているのを思い浮かべていた・・・・・・。

バロンダンス
クシマンにあるCV. CATUR EKA BUDHI。50,000ルピア。バロンダンスを観るには観たのだが、印象がほとんどない。バロンダンスは善と悪の戦いの物語を表しているらしい。しかし、本編が始まる前の歓迎の踊りを、数分間、見たところで飽きた。強いて印象を言うなら、空いていたぼくの目の前の席に、上背の高いオージーの中年女が途中から座り、後ろの人たちの視界を遮ってデジカメの写真を狂ったように撮りまくっていたことだ。傍若無人なカメラ小僧は、日本人と中国人の特徴と思っていたのだが、それを凌駕するほどの、田舎者のオージー女の激写。時代は変化しつつある。
「善と悪とがどちらの勝利もないまま、いつまでも同時に存在し続けているというバリの二元論的な思想。バロンとランダの戦いは永遠に続き、ランダにかけられた魔法をバロンによって解かれた使徒たちは最後に胸にナイフ(クリス)を突き立てるが、それでも死ぬことすらできない・・・・・・」
所詮、古典芸能。踊り手にそれなりの意思がなければ、こちらには何も伝わらない。それでも、後ろで観ていた中年の日本人の客たちは、渡されたリーフレットをもとにダンスのストーリーを熱く語りあっていた。ところで、彼らは、たとえばこのダンスが90分も続くとしたら、最後まで飽きずに見終えることができるのだろうか。
ブレークダンスなど、観客を喜ばせるような見せる要素を入れたのなら、まだマシだったかもしれない。ただ、古代から受け継がれた伝統芸能に対して失礼な話ではあるのだが。

一つだけ言うのなら、きらびやかなガムランの音と、目をカッと見開いたまま独特のしぐさで踊るレゴンダンス。ああした、スローなしぐさと、瞬きを止めた流し目は、恐らく、踊り手をトランス状態に導くことになるのだろう。事実、踊り手と目が合っても、彼女たちにはこちらに対する意識がない。つまりは、何も見てはいない。
トランス状態をシータ波が支配する脳波と仮定するのなら、踊り手は心理的に顕在意識と潜在意識との間にある障壁が取り除かれた霊的な別次元の状態になる。顕在意識が取り除かれば、サルのような、あるいは、トリのようなしぐさが現れてもおかしくはない。したがって、こうしたトランス状態へ誘い込む踊りが、宗教的な行事と結びつくのは当然のことなのかもしれない。

「難解な古典芸能だね。だけど、途中からストーリーが追えなくなってしまって・・・・・・」
プナに感想を聞かれてそう答えると、プナはもっともだと言う顔でうなずいた。そう簡単にわかるものかというところか。
だが、彼は続けた。
「神様への奉納舞踊には、いく種もの種類があって、それを踊る時、踊り手のみならず観衆にも”神が来る”ことがある。
神は何の前触れもなく、時には、同時に何人もの人にやってくる。男でも女でも、神が訪れた人々は、踊り、叫び、走りまわる。
そして司祭から聖水をかけてもらい、ようやく神から解き放たれるんだ・・・・・・」
彼が言う「神が来る (God comes)」の意味は、おそらく、線香と香りとガムランの響きの中、ゆったりとした動きの奉納舞踏を長時間見ていると、観客もトランス状態になることがあるということなのだろう。地元の人たちの、極度に緊張した精神状態での観劇。
神と合体して会話し、自ら神として行動する霊的な状態にならしめる。さらに、霊的に強い聖獣バロンや魔女ランダを演じる者は、必ず、踊る前とあとには、悪霊にのり移られないようにお祈りを欠かさないらしい。
彼の真剣な顔つきに、ぼくはバリの宗教儀礼の奥深さをかいま見たような気がした。恐るべし、バロン。あの、ぼくの前の席で狂ったようにシャッターを切り続けていたオージー女には、・・・・・・”神が来ていた”のかもしれない。

耳に残るガムランの響きには、この地から黒潮にのり島々を経由しながら、日本へ渡った祖先もいたであろうことを考えさせられた。バリ音楽の音階は、沖縄の音楽と同じくハ・ホ・ヘ・ト・ロの五つの音を使う。そして、日本の和音階も五つの音で構成されるのだが、陽音階はハ・ニ・ホ・ト・イ、陰音階はイ・ロ・ハ・ホ・ヘで、沖縄やバリの音階とは異なる。古来の日本は、たしかに混血文化なのだ。

Pura Goa Gajah ゴアガジャ 象の洞窟寺院
儀礼や祈りをするための場所を、バリではPura(プラ)と言う。プラは神々を祀った施設で、日本の神社に近いのだが、英語で「temple」と訳すため、「寺院」と言うのが通例となっているようだ。
バリの観光名所は各地にあるのだが、ウブド近郊の観光の目玉は、ゴア・ジャガだろう。14世紀にオランダ人に発見された11世紀頃の遺跡。ゴア・ガジャとは象の洞窟という意味だ。昔の僧侶の瞑想場とか隠者の住居などの説があり、定かではない。
駐車場で車を降りると、プナからこの先30mと指差された。ひとりで土産物屋が並ぶ道を松葉杖で通るが、さほど、客引きが強くない。これも、松葉杖の特権なのだろうか。

6000ルピアの拝観料を払い、斜面を下りていくと、下の広場にいかにも古そうな石造の沐浴場が地面を掘り下げるように造られており、広場の左手に巨大な神の顔の石彫りが施された洞窟の入り口がある。かっと目を開いての流し目。レゴンダンスで見かけるしぐさだ。日本の神社にある金剛力士のように、洞窟内に仏敵が入り込むことを防いでいるのかもしれない。洞窟内は高さ約2mで左右に神像を安置する場所が設けられている。左にガネーシャ像、右にリンガのほか多くの宗教彫刻がある。リンガ(男根像)はシワ、ウィシュヌ、ブラーマの三大神を象徴しているらしい。

ガネーシャは、太鼓腹の人間の身体に 片方の牙の折れた象の頭をもった神で、4本の腕をもつ。障害を取り去り、また財産をもたらすと言われ、商業の神・学問の神とされる。その誕生は、パールヴァティーが身体を洗って、その身体の汚れを集めて人形を作り命を吹き込んで誕生したのがガネーシャだ。パールヴァティーの命令で、ガネーシャが浴室の見張りをしている際に、シヴァが帰還した。ガネーシャはそれを父、あるいは偉大な神シヴァとは知らず、入室を拒んだ。シヴァは激怒しガネーシャの首を切り落とし遠くへ投げ捨てる。
パールヴァティーに会い、それが自分の子供だと知ったシヴァは、投げ捨てたガネーシャの頭を探しに西に向かって旅に出かけるが、見つけることができない。そこで旅の最初に出会った象の首を切り落として持ち帰り、ガネーシャの頭として取り付け復活させた。これが、ガネーシャが象の頭を持っている所以とされる。
儀式の始めや仕事始めなど、大事なことを始めるときは必ず最初にガネーシャを拝むのがヒンドゥーの習わしだ。日本の仏教でも歓喜天(聖天)と呼ばれ、ちょっとエッチな意味を含む仏(ほとけ)の一人。商売の神様としてよくインド料理店で見かけたりする。

芸術の町。ウブド
電柱がないこと。景観を壊すような看板がないこと。電線が無粋に空を這っていないこと。こんな簡単なことが、これだけ景観に価値をもたせるものなのだろうか。ウブドへ行くまでに目にした景色。破壊しつくされた日本の景色と比べると、どこを見てもコンクリートの塊が見えない景色は、やはり非常に貴重なものであることが実感される。
フェンスの見当たらない民家、赤い瓦屋根や瓦葺の屋根。そこには、神様がデザインしたままの調和があった。町中は別にして、空を遮るのはヤシの木だけだ。圧倒的な植物の生命力がみなぎる豊かな自然。その緑のエネルギーに圧倒されていた。
ウブドでは、素朴で純粋な人々のホスピタリティー。奢ることなく自然に調和して、人々はつつましく生きていた。どこに目をやっても、バリらしさが存在した。チャナンは通りに必ずあったし、石像を置いていない家は見当たらない。村を歩いていると、こぼれんばかりの笑顔とすれ違う。一瞬、松葉杖のぼくに注意を留めてのことかなと思うがそうではない。笑顔は、彼らは挨拶。信仰心から培われたものなのだろうか。多くのバリ人が、おしみない微笑みを振りまいてくれる。おおらかな笑顔。バリのホワイトマジック。

数十年前の日本も、こうだったような気がしてならない。田中角栄の日本列島改造論で、日本はかつてない経済活況を喫することができたが、残念ながら失ったものの方が大きかったようだ。

バリ島はリピーターが多い。いくつか理由はあるのだが、この芸術の町ウブドはその理由のひとつだ。ウッドクラフトの店が軒を並べ、店先には見事な彫刻を施したつくりかけの家具が置いてある。一体、バリでこれほどの家具の市場があるのだろうかと心配になる。そして、無数に点在しているアートギャラリー、ミュージアム、アトリエでは、豊かな感性と高度なテクニックで緻密に描かれた絵画を見ることができる。
プナに連れられて訪ねたアートギャラリー。バリらしいヒンズー教の神々がモチーフの細密画や、ポール・ゴーギャンの『タヒチの女』のような南国の女性がモチーフの絵画に目を奪われた。大胆な構図で、自然と人間の調和を絶妙な色彩で表現してあった。
また、町中の石畳の道を松葉杖で歩いて行けば、バリ独特のアジアン雑貨やアクセサリーの店が軒を連ねていた。店の前では、チャナンを供える女性が静かに手を合わせていた。

ウブドの散策を終え、プナと2人で町外れのレストランで食事。インドネシア音楽が流れる2階の窓側の席から、広大なライスフィールドを眺める事が出来る。見渡す限りのどこまでも続く緑豊かな田園風景。眺めているだけで、気持ちがゆったりとしてくる。田んぼのあぜ道をはさんで、右側に見える田んぼは田植えを終えたばかりだったが、左側は刈り取りが終わったばかり。同じ視野の中に、春と秋の田園風景が混在していた。

プナはナシチャンプルを、ぼくはチキンヌードルスープとライスをそれぞれ注文。チキンヌードルは、大きな器に入って出てきた。酸味とスパイシーな風味のコンビネーションが絶品だった。スープはほんのりレモングラスの香りがして、南国らしさがにじみ出ていた。そして、ヤシの葉っぱに包まれていた御飯に乗っていた、赤茶色のふりかけのようなもの。てっきり、オキアミの佃煮だろうと思ったのだが、味はまったくない。プナに聞くと、椰子の実から作られている食材とのこと。
プナはフォークやナイフを使って、自分の皿の料理を普通に食べていた。バリニーズは、右手だけで食べるのかなと思っていたが、TPOを選択するということか。

癒し系ソープ
ホテルで気になるのは、シャワーを浴びる時の石鹸やシャンプーだ。日本で売られている直鎖アルキル系の合成洗剤は、やし油など天然油脂を原料とした脂肪酸系ナトリウム塩(石鹸)と生分解性は大差ないらしいのだが、世界中のホテルに供給されているアメニティはいまや中国製が主流。その素性には、はなはだ疑問なところが多い。また、日本の市場でも、ヘアケア商品(シャンプー、コンディショナー、リンス)の主成分は合成界面活性剤(合成洗剤)だ。

一般的に言えば、合成界面活性剤の方が安価のため大量に使われており、しかも、天然系の界面活性剤より毒性が高いため、微生物による分解を受けにくい。生分解性に劣るから、下水処理した後も洗剤分が分解されずに残ることがあり、海に流出すれば富栄養化を招く。つまりは、海を汚してしまうリスクがある。

海を汚さないため、日本では普段から石鹸やシャンプーに気を使って来た。今回の旅行では、松葉杖というハンディキャップから持ってくる荷物の量に限界があり、普段使っている石鹸やシャンプーを持参することができなかった。だから、バリに滞在している間、ホテルで使う石鹸としてホテルから提供される得体の知れない中国製ではなく、少しでも生分解性の高い石鹸を使いたいと思って探していた。

オリーブ油から作られると言う、マルセイユ石鹸のような天然石鹸を探して、ウブドの町をぶらついていたらその店があった。
「コウ オーガニックソープ」。日本人のミツコという人がオーナーだという。対応してくれた彼女は、クトゥという名前の若いキュートな女性。ここの石鹸は、ヤシ油から作ったハンドメイドなんだそうだ。普通サイズのせっけんは、もちろん、キャンディみたいなラッピングが施された小さなものもある。
ジャスミンや、ローズ、レモン、バニラなど、いろいろな香りの石鹸があったのだが、ラタンBOX入りのキャンディーソープセットを購入。購入した石鹸を背負っていたザックに入れておいたのだが、ホテルに帰ってザックをあけると石鹸の香りが移っていて、しばらくはシアワセな気分になれた。バリの香り。癒しの石鹸。

ティダアパアパ(どうってことない)
でこぼこの化粧ブロックを敷き詰めた、ウブドの町の道沿いに面白いものを見つけた。店の建築現場だ。要所要所に立つ細い鉄骨を入れたコンクリートの柱。その鉄筋コンクリートをよそに、無数の竹材で作りかけの屋根を支えている。おそらく、雨季の今、雨を避けるための屋根が何よりもまして必要なのだろう。かくして、はじめに屋根ありきの工事手順になる。建築途中の店の前には、クリスを手にした守り神の石像が道行く人を見つめていて、その台座にはチャナンが添えられていた。

ウブドの豊かな田園風景を後に、バリ島の南へ移動。途中、プライス表示のある大きな土産物屋によってもらって、小さな木彫りの4匹セットのバリ猫を土産に購入。さらに、チュルク村に寄って、バリ島伝統芸術でもある銀細工のショッピングセンターを見物。プナは、価格が高いからその店で買わなくてもいいし、もし、買いたいものがあれば、彼が値引き交渉をしてくれると言う。たぶん、ガイドとして客をその店に案内することで、コミッションが彼に入るのだろう。プナは店に案内することを恐縮しているのだが、基本的に暇なぼくは喜んで連れて行ってもらう。
バリでは、パンデ(PANDE)の称号で呼ばれる鍛冶屋の親族集団がいる。彼らは太古の火の祭司で、霊力を持つ金属を細工して男性生殖器の象徴であるクリスなどの神聖な器物を作っていた。絵画同様に、その緻密な手作業によって製作される手工業の銀製品に驚く。日本の工業製品とは全く異なる次元の物。そこには悠久の時間の流れが感じられた。

銀細工のショップを出て、バリ島を南下する途中、ガソリンスタンドで給油。これまで、バリ島をあちこち走り回って、ガソリンスタンドの存在に気がつかなかったのだが、当然、これだけ車やバイクが道路を走り回っていれば、ガソリンスタンドが無いはずがない。半分セルフ式の給油で、車のガソリンキャップは自分で開ける。ガソリンは約30リットルで2000円弱。日本のガソリン価格の1/2~1/3というところか。
幹線道路には、家具屋や石工店が数多く建ち並んでいる。それ以上に目に付くのが、あちこちの店先に出ている小さな屋根がついた棚。その棚には1リットルぐらいのガラス瓶に入った液体が売られている。
なんだろう?ココナッツジュース?
プナに聞くと、中身はなんとガソリンだった。圧倒的な数で走っているバイク向けらしい。ガソリンスタンドのバイク専用レーンは混んでいるので、そこに並ぶのが面倒な人の向けとのこと。スタンドより少し高い値段らしいのだが、バイクは不意にガス欠になることが多く需要は多いのかもしれない。たしかに、棚を良く見ると”100% BENSIN”と書いてある。そのそばで、店のおじさんがタバコなんか吸っていたりする。日本の消防法では考えられないのだが・・・・・・tidak apa apa=ティダアパアパというところか。

マクドナルド
車はクタを経由、スーパーマーケットによって貰って、バリのチョコレートを土産に購入。そして、南に向かって快調に走っていたのだが、本日のハイライトである夕暮れのウルワツ寺院でケチャダンスを見物するまでには、まだまだ時間があるとのことで、コーヒーブレークを提案される。そこでプナにお願いして、道路沿いにあるジンバランの24時間営業のマクドナルドに行ってもらうことに。ヒンズー教のバリ島で、マクドナルドはどんなハンバーガーを提供するのか興味をもったからだった。なんせ、島民の90%はヒンドゥーのバリだ。宗教による食のタブー、すなわち、牛肉のタブーをいかにクリアしているのだろう。

マクドナルドの駐車場に車を入れたプナは、車のブレーキがおかしいと言ってボンネットを開けた。一緒に中を覗いて見ると、ブレーキオイルのリザーブタンクが空に。彼は、近くのカー用品の店でブレーキオイルを購入するから、コーヒーを飲んで待っててくれと言う。一緒にマクドナルドの店内に入って、コーヒーを注文。プナは、テーブルにコーヒーのカップを置いたまま車の修理へ出て行った。
マクドナルドの駐車場には、大学の集会のような催し行事があり、大勢の若者がいたのだが、店内には数組の客しかいなかった。バリのマクドナルドのメニューは、チーズ、マックチキン、フィレオフィッシュ、ビックマックと日本にあるのと同じ。レジに並んだ客たちは、ソフトクリームを注文していた。
黒のポロシャツにパンツルックのオネエサンの接客は、バリのレストランと同様だった。日本のような、はじけるようなスマイル0円のサービスはない。コーヒーはごく普通、コーヒー豆が沈殿したバリコピではない。普通にスティックシュガーとミルクポーションが付いてくる。ちなみに、牛はシヴァ神の乗り物として神聖な動物で、殺したり虐めたりすることはタブーなのだが、牛乳やソフトクリームなどの乳製品は神の恵みで口にしても問題ないらしい。もっとも、マックのミルクポーションはミルクから作られたものではないのだが。

ほどなくして、プナが車の修理を終えて帰ってきた。コーヒーを飲みながら一緒にまったりのつもりが、どうも、プナの様子がおかしい。どうやら、宗教による食のタブーが、彼をくつろげさせないでいるようだ。
「バリニーズはマクドナルドに行かないの?」
聞くと、黒い顔を青くして、
「マクドナルドに行くのはジャワの人たち(モスラムの人)だけ」
彼は、あたりを見回して言う。彼に言わせれば、バリニーズとジャワ人は簡単に見分けがつくそうだ。ジャワ人の方が色が黒く、険悪な顔つきらしい。穏やかな性格も含めて日本人に似ているバリニーズとは、性格も異なるとのこと。
彼の居心地の悪そうな様子に、ぼくは彼にマクドナルドに誘ったことを謝って、さっさと店を出た。彼は、しきりにマクドナルドでゆっくりできなかったことを詫びていた。食のタブー。本当に難しい問題だ。

風を感じたウルワツ寺院(Pura Uluwatu)
タナロット寺院は、満潮時に海の上にぽっかりと浮かぶことでも有名らしい。残念ながら、今日は曇っていて夕陽は見られそうも無い。夕暮れ時をタナロット寺院で過ごすか、ウルワツ寺院で過ごすか、どちらにしようか迷って、プナお勧めのウルワツ寺院へ。

道路わきに車を止めプナは車を降りるや、道の傍らの藪の中から枝振りの良い手ごろなサイズの枯れ枝を拾ってきた。ここ、ウルワツには夕方になると出てくるサルたちがいて、かなりのいたずらものらしく、そのサルたちを撃退するためのものだった。寺院の入り口で、プナがぼくの分と合わせて2人分の拝観料を払ってくれる。どうやら、現地人プライスのよう。仲間として認めて貰えたようでうれしい。
寺院では腰に巻く黄色いスレンダン(ヒモ)を貸してくれる。サロン布と帯紐を腰に巻くバリ人の正装の簡略版だ。
5分ほど歩くと石段と門が現れる。寺院の周りにめぐらせた階段の遊歩道を、ぶらぶらとジャランジャラン。実は、日本に帰ってきてから知ったのだが、この「ジャランジャラン」はインドネシア語で「散歩」の意味らしい。
ヒンズー教の寺院と言うことで、遊歩道にはインド人の参拝客が目に付く。次に多いのがコーリアンのカップル。プナは、メガネをかけたコーリアンの新婚カップルを追い越しざまに、サルに注意するよう声をかけていく。とくにメガネはサルの好奇心をあおるようで、飛び掛ってきて持ってかれてしまうようだ。ぼくはと言えば、でこぼこの石畳の道を松葉杖の音高らかに歩いていくので、いたずら好きのサルもさすがに怖がって寄ってこない。これも、松葉杖の威力。

ルフゥール・ウルワトゥ寺院(Pura Luhur Uluwatu)とダルム・ジュリッ寺院(Pura Dalem Julit)という、隣り合わせに建つ2つの寺院の総称がウルワツ寺院だ。ルフゥール・ウルワトゥ寺院は、ジャワの高僧ウンプ・クトゥランによって、9~10世紀ごろに、海の霊を崇拝するアニミズムの聖地として建てられたもので、後に高僧ダン・ヒャン・ニナルタが、バリ島の最高神であるサンヒャン・ウィディを祭るパドマサナを増築したと言われている。
バリの6大寺院の一つであるこの寺院は、ブキッ半島の南西の突端に建てられている。はるか彼方まで見渡すことのできるインド洋の水平線。そして70メートルの断崖に力強く打ち寄せる荒波。
壁沿いの上り階段の回廊を歩いていく途中に、見晴らしの良い場所があり、何人もの観光客が景色を見ながら一休みしていた。ぼくらもここで、一休みして記念撮影。海からの風に吹かれていると、なんだか、いろんなことがどうでも良くなってくる。自然と一体になれる、そんな感じ。
ここはサーファーには有名な波乗りポイントらしいのだが、海の中は岩場で危険とのこと。 海岸線で、数メートル級のビッグウェーブが白く砕けていた。向こうに見える入り江の先の広い崖の上には、見渡す限りの低木が生えていて美しい。

たむろしていたバリニーズのガイドたちが、ぼくの松葉杖に目を止めてどうしたのか聞いてくる。右手についたままの病院のIDタグを見せながら、パラグライダーで墜落したことを伝えるとみんなで同情してくれる。その中の一人が、向こうの丘の上もパラグライダーのランディングポイントだと言う。島のどこかのテイクオフから、オフショアの風に乗ってここまでフライトができるらしい。
それを聞いて、めちゃくちゃ心に火がついた。バリでもパラグライダーができるんだ。でも、グライダーを飛行機で運べるんだろうか?全部で30kgの重さがあるぞ。・・・・・・海に落っこちたらどうしよう。いくら、素潜りで息が続くとはいえ、水中でハーネスをはずすことができるのだろうか。海に落ちて亡くなったパイロットは結構いるぞ・・・・・・なんて。

バリニーズたちよ。ホワイトマジックをかけるのなら、英語じゃなくて、現地語でやってくれよ。さもないと、その気になっちまうだろう。まだ、ぼくにはバリ島以外にも、潜ってみたい海や、登ってみたい山があるんだ。だって、未だに不思議なのが、飛行機のランディングの際に、前方スクリーンに映し出されたバリ島は赤茶けた大地に見えたこと。いったい、どんなマジックを使って、緑豊かな土地に見せてるんだ?バリニーズたちよ。どうせマジックをかけらるのなら、・・・・・・若い娘からの方がいいんだけど。

ここでも、民族衣装を着たバリの人々がお祈りをしていた。古来の人間の記憶が呼び覚まされるような原風景。人類の祖先は、確かにここにいた。

ケチャダンス(kecak)
ウルワツ寺院の遊歩道の先に、ケチャダンスの舞踏場があった。円形の広場になっていて、その周りには、海に一片を切り取られる形で、半円状に囲んだ8段の階段状観覧席がある。天気が良ければ一番高い列の席から海に沈む夕日が見えるのだろうが、今日はあいにくの曇り空なので、正面最前列のかぶりつきの席に座る。

円形の広場には、オイルを燃料にした松明が置かれ、そのまわりに、ファイヤーダンスでつけられたススの黒い跡があった。中央の松明に火がともされ、独特の歌声と共に半裸の男たちが入場して、聖水による清めの儀式の後、ケチャがはじまる。男たちの衣装は、上半身は着衣無しで、赤い帯に白と黒のチェック模様の短い腰巻きをまき、右耳に赤のハイビスカスの花をかざっている。
数十人の男達は車座に座り、両手を上げて「チャ!チャ!チャ!」と合唱。肩を震わせ、指、顔、全てを小刻みに動かす。踊りというより宗教儀式だ。リズムを刻む人々やメロディっぽい部分を担当する人など色々なパートに分かれていて、それが複雑に絡まって見事な音楽を作り上げていた。そのうち、ラーマーヤナの物語がはじまり、女性のダンサーが美しくゆっくりした動きを見せる。それを取り囲む男たちとの対比が際立つ。
舞踏劇は踊りが中心なのだが、途中台詞も入る。言葉は理解できずとも踊りで感情を表現しており、ストーリーは想像がつく。王子様がとらわれて、悪者と戦って、サルやらの動物たちが出てきたり・・・・・・。
舞踏劇が進行して物語が一通り終わると、ラストはファイヤーダンス。

男たちが周りに下がって、広くなった広場の中央を囲んで藁を何箇所かに積み上げて、オイルをかけるといきなり点火。いくつもの見事な火柱が目の前に現れた。白い馬を模した木馬にまたがった男が登場し、もえさかる火柱の中に突入。そして、火の粉を撒き散らしながら、火がついた藁だかをそこら中に蹴って散らして踊り始める。火の粉は夕暮れの薄明かりに舞い、西からの風に吹き流されて観客席の方にも飛んで行く。このクライマックスのファイヤーダンスは、夕闇に浮かぶ炎が神秘的で、かつ、幻想的でなんとも言えない余韻が残った。
ぼくは、また一つ、バリのホワイトマジックにかかっていた。

スムースオペレーター(シャデェー)
バリのホワイトマジックのせいか、ケチャダンスの余韻もさめやらないウルワツ寺院を後にして、一路、ホテルに向かって夜の道を車は走った。ブレーキオイルを補充した車は、昼の快調な走りを取り戻していた。結局、プナには、朝から夜の8時を過ぎたこの時間まで、11時間を越えて車の運転をしてもらったことになる。彼の親切に、感謝の気持ちでいっぱいだった。彼は、今度来る時は、家族をつれてぜひ来いという。彼を通せば、クルージングツアーも現地プライス、つまり、半分ぐらいの値段で参加できるらしい。なんと、半分のプライスだ。・・・・・・もうひとつの、ホワイトマジック。バリには、いつか必ずもう一度、来なければならない。
ホテルに着いて別れ際に、彼に自宅での明日の夕食に招待された。
「明日の夕方7時に迎えに来るから」
ぼくは、喜んで彼の招待を受けることにした。

ホテルの部屋に戻り、時間も遅かったので、ホテル内のチャイニーズレストランで夕食を。食材の一部が中国から輸入されているかも知れず、なんとも不安だったが、背に腹は変えられない。付け出しに出された、大量の塩茹での落花生がとても美味しく、ビールが進む。甘皮がはがれないので、未熟な時期に収穫した豆なのだろう。かすかに、にんにくの香りがする。行きのガルーダインドネシア航空の機内でも、bali peanutsと書かれたおつまみがでてきたから、落花生はインドネシア産で中国産ということはないのだろう。
もう一皿の塩茹での落下生があれば、それで夕食は十分だったのだが、注文して出てきたチキンのスープ付きヌードルは、鶏肉の味わいの深い醤油スープに中華風の麺だった。野菜がたっぷり入っていて、これもおいしい。しょう油味のチキンラーメンは、はじめての味わいだ。値段は200円程度。ホテルのレストランは高いと思って、食事のため街中をさまよっていたこれまでのぼくの努力はいったい何だったのだろう。

レストランを出て、昨晩は帰りが遅くなって行かれなかった近くのジャズバーへ。例によって、バリニーズのバーテンダーのロシティとナナに歓迎を受ける。今夜のライブは、バリニーズの女性ジャズボーカリストとそのバンドだった。ライブの最初の曲を聞くなり、ぼくはしびれた。重低音ベース&ドラムス炸裂。ぼくは、そのビートの利いたサウンドに、ライブ特有の一体感を味わっていた。そして、女性ボーカルの声は、セクシーなハスキーボイスだった。彼女の声を聞いて、ぼくはシャーデーを思い出した。彼女の歌う「スムースオペレーター(ナンパがうまい人)」を聞いてみたい。何曲か演奏が進むにつれ、ますます、その思いは強くなっていく。そして、リクエストの募集。ぼくはカウンターから思わず声をかけた。
「シャーデーをお願いします」
最初は通じなかったようなので、DJ風に言い直す。
「シャデェー」音節の後ろにアクセントを置いた発音。「うまく歌えるかどうかわからないわ」と言いながら歌いだした彼女は、完璧だった。
曲はまさに聞きたいと思っていた「スムースオペレーター」。前奏のラウドなドラムスが鳴った瞬間、ぼくは、一気に感動の頂点へ。

休憩が入り、ボーカルの彼女がぼくの隣の席へ。その彼女といろいろな話をした。彼女はまだ、CDデビューはしていないらしい。そして、彼女の3歳の子供は、彼女よりもさらに音楽の才能があるとのことだ。子供はメジャーデビューできるかもと彼女は言う。今から楽しみだ。ところで、彼女が尊敬しているボーカリストは、ダイアナロス。彼女の歌唱のテクニックは学ぶものが多いとのこと。ダイアナロスは、あまり知らないんだよね。思い浮かぶ曲が全然ない。

休憩が終わり、また演奏が始まる。曲と曲の間に、カウンターのひとつ離れた隣のイスに座っていた、陽気なコーリアンの女の子に声をかけた。彼女はインテリアデザイナーだと言う。名前はスク。手帳に韓文漢字で名前を書いて見せてくれる。彼女と話をしていたら、客として店に来ていたオージーの初老の男が飛び入りで歌いだした。たしかに歌はうまいのだが、お金を払ってまで聴く歌声じゃない。次の曲もその男が歌うというので、ぼくは、さっさとい勘定を済ませてホテルへ。どうやら、バリに来てから、早寝早起きの健康的な習慣が身についてしまったようだ。

涙が止まらなくて
朝から雨。止みそうも無い。さすがに、プールには誰もいない。
朝食のレストランで、変らない笑顔で出迎えてくれる女性から、今日はホテルの記念の日だから、夕方から奉納舞踏があると教えられる。そう言えば、ホテルの入り口の脇にあるサンガ(小寺院)のところで、なにやら舞台らしきものを昨日から作っていた。楽しみだ。
朝食を終えてから、プナ宅に招待されているぼくは、ワインでも手土産にと思ってホテルのツアーデスクの若い女性に相談した。彼女は、キラキラした目が印象的な女性なのだが、本当に頭が良く、気が効いていいて仕事もできる。クルージングツアーに参加したことも覚えていてくれて、どうだったか感想を聞いてきた。
彼女の言葉によれば、ワインは近くのショッピングセンターで買えるらしい。そして、雨の中を、松葉杖で買い物に行く方法。彼女はその方法を、即座に考え出してくれた。ホテルの無料送迎バスで、ショッピングセンターの軒下まで。帰りも、その軒下からバスに乗車できるらしい。

ぼくは彼女が立ててくれたプランに沿って行動。ホテルのおんぼろ送迎バスは、彼女の言うとおりサヌールの町並みを通って、中央部にある大きなショッピングセンターの玄関先に停車。センターの中のアーケードコーナーで、彼女のお勧めのチキンラーメンとバリコピを注文。まずは昼食に腹ごしらえ。
チキンラーメンは、非常に懐かしい味がした。麺は、縮れ麺。野菜がたっぷり入っている。妙に懐かしい味。あとで、ショッピングセンターの食品の列を通りかかった時に、その理由がわかった。多種類の袋入りのインスタントラーメン(Mi Instan)が売られていた。インドネシアのメーカーであろう”IndoMie”や、日本のNISSINのカップヌードルも。カップヌードルは、日本で売られているそのままの姿だった。袋入りのラーメンの値段は1袋Rp.670 (10 円)程度。
たぶん、先ほど食べた縮れ麺のチキンラーメンは、インスタントのものなのだろう。それにしても、小さな調理台しかない狭いスペースで、あれほど野菜がたくさん入ったラーメンや、メニューにあるいろいろなインドネシア料理を出す手際のよさに感心してしまう。
そして、バリコピ。とうとう、コーヒー豆の粉が沈殿した、深い味わいのローカルな味に出会えた。砂糖は、少し茶色がかった、粉状のもの。この砂糖の原料はなんだろう?
食事が終わって、食器を下げに来た女の子が、「もう、飲まないの?」と聞いてくる。コーヒーの粉が貯まっているカップの底の部分のことだ。
「どうやって飲むの?」 
スプーンで粉の部分をすくって見せると
「そうね」
彼女は納得して帰っていった。ひょっとしたら、ローカルな人たちは、もっと我慢して、粉の沈殿ぎりぎりまで飲み干すのかもしれない。

ボトルワインは、簡単に見つかった。フランス産は、もちろん、ドイツ、スペイン、ポルトガル、アメリカ、オーストラリア、チリといろいろな国の銘柄があるのだが、バリ島産のハッテンワインの3倍以上の値段だった。安いものでも2000円ぐらいから。
プタへのプレゼントとして、ドイツワインを選び、ワインオープナーと共にラップしてもらった。

帰りのバスを待っていて、時間になってもバスがなかなか来ない。ショッピングセンターの前には、来た時と同じ初老のオージーの4人グループがバスを待っていた。駐車場には、雨降りと言うのに列を作ったバイクがたくさん並んでいて、買い物を終えた主婦たちが、子供をバイクの前と後ろに乗せて走りさっていく。なんと3人乗り。

ようやく、ホテルの特徴のあるおんぼろマイクロが姿を見せた。バスの運転席には来た時と同じドライバーが見えた。朝は心配そうに松葉杖をついたぼくを見ていた彼だった。ショッピングセンターの入り口で待っているぼくと目があった彼は、満面の笑みを浮かべた。彼の笑顔を見て、ぼくは胸の柔らかい部分を締め付けられた。そして、涙が止まらなくなった。なんて、素敵な笑顔なのだろう。どうして、ぼくらは、この笑顔を忘れてしまったのだろう。

プナ宅へ
ホテルに帰って、2階の客室へ続く吹き抜け廊下のソファーに座って文庫本を読んでいると、通りかかったツアーデスクの女の娘が、笑顔で「ワイン買えました?」と聞いてくれた。彼女は本当によく気がつくし、美人で有能だ。このバリの旅で最大の後悔は、彼女の写真を撮り損ねたこと。でも、彼女のやさしさは今でも心に焼き付いている。

夕方の5時ぐらいから、ホテルの入り口脇の小寺院で、奉納舞踏がはじまった。ガムランの音色と線香の香りがあたりにあふれ、ホテルの入り口前のロータリーには、30人ぐらいのインドネシア衣装に身を包んだホテル関係者たちが座って奉納舞踏を見守っている。その人の群れの中に、朝のレストランで顔見知りの女性スタッフや、写真を撮らせてくれた若い女性、そしてツアーデスクの日本人女性sachikoさんを見つけて手を振ると、それぞれが、こぼれるような笑顔を見せてくれた。並んで座っていたsachikoさんのそばに行って、この奉納舞踏の意味を聞くと、「今日がホテルの誕生日でそのお祝い」とのことだった。そして、朝から準備していた奉納舞踏もついに終わり、台の上に山盛りに積まれた果物などの大量のお供え物が参拝者に分配されていく。

奉納舞踏を見ているうちに、プナとの約束の7時なった。外は相変わらず雨が降ったり止んだり。夕闇が、ロビーから見える庭を包んでいた。7時を過ぎても、いつもは時間に正確なプナはまだ現れない。どうしたんだろう。奉納舞踏で込み合っていて、ホテルの入り口に車が入れないのだろうか。不安になってくる。
30分待ったが、まだ来ない。なにかの事情で遅れるのかもしれない。でも、そうなら、ホテルに連絡が来るはず。
この時、昨日の朝、彼が別の約束で確認の電話をくれたことを思い出した。ひょっとしたら、約束しても確認の電話をしなければ、約束は成立していないのでは・・・・・・。それがバリスタイルなのかもしれない。
ぼくはツアーデスクの女性が、こちらの言った事をすべて覚えていて希望をすべてかなえてくれていたので、バリの人々には一度言えば念を押す必要はないと勝手に思い込んでいた。やっぱり、彼女は特別なのだろう。
45分待って、彼が現れそうも無いので、教えて貰った彼の携帯へ電話する。
「何時の約束だったけ?」
「すまん。忘れていた。すぐに迎えに行く」
プナは、単純に約束を忘れていたようだった。

彼の自宅は、ホテルから車で10分ぐらいだった。細い石畳の道路わきでタクシーを降りると、さらに街灯のない細い路地を奥へずんずん入っていく。プナは松葉杖のぼくに、傘をさしかけてくれた。途中でずぶぬれの長男と出会う。彼の家族は、長男、長女、次男の5人家族。子供たちはみんな社会人だった。
家のドアを開けたところの居間の壁には、黒のガウンと角帽子の姿の長男の大学の卒業式の時の写真が飾ってあった。また、ウプの両親の写真も。部屋の奥には、27インチほどのインドネシア製のブラウン管式のカラーテレビとオーディオセットがバリ彫刻を施した木製ローチェストの上に並び、その横には、大きな金魚(らんちゅう)が泳いでいる水槽が置いてあった。白い漆喰の壁には、馬の絵をあしらったものと、風景をあしらったイカット壁掛け布が飾られていた。天井は、ヤシか何かの植物を編んだ材質のものだった。

バリニーズの夜
プナ宅で中に招かれ、ソファーにかけると、さっそく、バリコピでもてなし。しかし、粉がカップの底にたまるバリ式コピではない。プナがバナナのフライを盛った皿を勧めてくれた。遠慮なく、手を伸ばす。ここは手づかみで食べても問題なさそうだ。 この揚げバナナは、甘味こそ薄いけどイモのようなホクホクした感じだ。お腹がすいているのか、テーブルの隅に着いた長男も、その皿に手を伸ばした。長男と次男は、どこかのレストランでウェーターの仕事をしているらしい。
奥さんと次男、長女は、テーブルには着かずに、部屋の隅にイスを並べてテレビを見ている。バリで見れる放送局は1チャンネルだけらしい。タレントを目指す芸人が、その芸を競い合うショーのようなものをやっていたのだが、番組の趣旨は説明して貰ってもよくわからなかった。
そのうち、次男も揚げバナナの皿に手を伸ばして食べ始めた。長女は、アパルトメーカーに勤めていて、針子の仕事をしているらしい。重苦しいカースト制度ではあるが、この一家にとっては、ビアイシャとして商業や製造業などの職業の選択の自由があるようだ。ただ、工科大学を出ても、競争率が高いので給料の良い専門職に就くのは難しそうだ。

プナが大量のサラックという果物を、お土産にと袋につめてくれた。この果物、後で調べたら、別名「スネークフルーツ」。皮が、ヘビの体の表面に似てるかららしい。味は甘くもなく、酸っぱくも無く、味気ない。カリカリして、多少、筋ぽい。残念ながら、生の果物は検疫で引っかかり、日本へは持って帰ることができない。そう説明して、丁寧に断る。
さらに、プナはヤシの蒸留酒であるアラックの味見をさせてくれた。そして、新しいアラックのビンもお土産に持って帰れという。どうやら、プナ家にとって突然の訪問者であったぼくのため、長男が雨の中をバイクで大量のサラックとアラックをひとビン買い求めてきてくれたようだ。だから、彼はずぶぬれだったんだ。彼には申し訳ないが、アラックも手荷物重量の関係で持って帰れない。

飾ってあった彼の卒業式の写真について訊ねると、人口約280万人のバリには複数の大学があるという。日本について聞かれ、TOKYOは約4倍の人口で100校ぐらいの大学と短大があると教えたら、彼はびっくりしていた。大学の話が出たついでに、気候変動枠組条約第13回締約国会議(COP13)の話をする。バリで2007年12月に開催されたばかりだから、バリの人々でも、地球温暖化「Global Warming」 という言葉が、興味の対象になっているはずだ。
「バリ島が海面上昇で沈むかもしれない」という過剰な危機感を、彼らはまだ抱いていないようだった。ただ、海辺のリゾート開発により、ウミガメの産卵場所が奪われたり、海水が廃棄物から出る油によって汚れることには、強い関心を持っていた。
彼ら、バリの若い世代の人たちに、インドネシアの今ある森を残す事、より健全にする事がCO2の削減に効果的であるということ教えることができた。今回のぼくのバリの旅の最大の成果と言える。

そんなおしゃべりを兄弟たちとしていたら、台所で料理を作っていたプナがヤキソバの入った皿を持ってきてぼくに勧めてくれた。フォークも添えてある。野菜がたっぷり入っていて、とてもおいしい。一人で食べていたのだが、みんなは、もうすでに夕食を終えているようだった。
結局、バリコピを1袋と、両手に一杯のスネークフルーツを明日の朝食にと貰い、ぼくはみんなの写真をとってプナ家をおいとました。帰りは、プナがぼくをバイクに乗せてホテルまで送ってくれた。
バリの人々は、酒を飲んでドンちゃん騒ぎというのは、しないのかもしれない。モスラムは飲酒が禁止されているので、その影響なのだろうか。確かに、夜の町には千鳥足のバリニーズや、バリニーズの男たちが酒を飲み交わしている店とかを見かけなかった。プナ自身も、ビールしか飲まず、強いアルコールのアラックは飲まないと言っていた。一家で、テレビを見ながらコーヒーで団欒。これが、一般的なバリニーズの夜のスタイルなのだろう。

微笑みのスラマ ジャラン
雨の降る夜のサヌールの道を、松葉杖を小脇にかかえて、プナのバイクでタンデムになって送ってもらってホテルへ帰還。ロビーの脇のラウンジには、客は誰もいず、生ギターの演奏が響いていた。最後の夜ぐらいと思って、ラウンジのカウンターに座る。バーテンダーは、クシャナとゲデ。ともに30代後半。ライム小片を搾ったアラックをもらい、それが終わるとビンタンビールへ。カウンターの奥の棚には世界中の酒のボトルが飾ってあった。ワインやヴェルモット、そしてスピリッツ。日本の焼酎のボトルもある。みんな、はるばる海を越えてやってきたのだろう。
テーブル席に中年のコーリアンの男2人がやってきて声高に話をしていたのだが、そのうちに卒業旅行の日本人の若者グループが押し寄せてくると、彼らはどこかに退散してしまった。
ぼくは、初めてのバリの夜に、ロビーを通りかかった時に聞こえてきた「ティアーズ・イン・ヘブン」をリクエストした。最後のバリの夜、エリック・クラプトンのこの曲は、ぼくの心にしみいった。神々の島バリ。ぼくはここに留まることはできない。クシャナとゲデが、逢ったばかりの別れを惜しんでくれる。スラマ・ジャラン。そう、ぼくは明日、バリを離れる。
♪私の名前がわかるだろうか もし天国で君に会えたら。 これまでと同じだろうか もし天国で君に会えたら♪

そして、翌朝。バリ島最終日。朝から日が射して、プールでは水音が響いていた。ホテルはレイトチェックアウトが可能で、夕方6時まで部屋を使うことができる。旅行会社のピックアップは、夕方7時の約束だった。
ホテルの部屋の机の上のたくさんのサラック。例によって朝食をたくさん食べて、もうお腹には入らない。どう処理しようか迷って、おとといの晩にジャズバーで出会ったコーリアンの女の娘スクにプレゼントすることに。ホテルのフロントに持って行くと、なんとか、彼女に渡して貰えそうだった。

バリで過ごす最後の日、ぼくはホテルでのんびり過ごし、前にマッサージをして貰った女性を訪ねて再びマッサージをしてもらった以外は、ほとんど何もしなかった。飛行機がバリを離れるのは深夜だったから、海辺でのんびりと過ごすこともできたはずだ。でも、このホテルの庭をのんびり眺めながら、いろいろなことをゆっくり考えて見たかったのだ。バリは、実に馴染みやすく懐かしく、ゆったりと落ち着ける場所だった。穏やかに、ゆっくりと、けれども心の奥深くまでじわじわとしみこんで、しかも、自分の何かが少しずつ変わっていくような、そんな感じがあった。
そして、大事なことが一つ、ぼくにはある。日本に帰って、足を骨折して世話になった多くの人に、有形無形の恩返しをすること。

チェックアウトを済ませてから車が来るまでロビーで待っていた時、行きかう人々の笑顔など、なにげない光景に名残惜しさを感じ、愛おしく思えた。こうした名残惜しさが、次の旅に繋がっていくのかもしれない。

そしてさよなら(スラマ ティンガル)
車は、ホテルに泊まっていた数人の日本人旅行客を乗せ、デンパサール国際空港に到着。
ずらーと並んだエコノミークラスのカウンターの中、比較的すいている奥の方の列で順番待している時だった。ぼくの前に並んでいた女性2人連れがチェックインしているのだが、なかなかチケットを発券してもらえない。彼女たちの預けるスーツケースが、重量制限の20kgを超過しているのが原因だった。カウンターのおねえさんは、「超過した分を機内持ち込み手荷物にまわしてください」と簡単な英語でお願いしているのだが、それに対して、2人は「超過料金を払うから、このままで」と言ってきかない。カウンターの向こうとこっちで、英語と日本語が行き来していた。
後ろで、松葉杖をついて辛抱強く待っていたのだが、見かねて素直にパッキングし直したらと声をかけたら、2人はその場でスーツケースを開けて重量調整を始めそうになった。
おねえさんが、彼女たちを放っておいて、ぼくを手招きしてくれたから、ようやく、カウンターへ。チケットを発券してもらって、預ける荷物はないことを申告。つまり、背負っていたバックパックを、持ち込み手荷物に申請。カウンターのおねえさんは、
「念のため、手荷物の重さを量らせて」と言ってきた。
恐る恐る軽量台に乗せるも、上限7kgのところを、残念ながら3kgオーバー。おねえさんから、ため息が漏れる。重そうなものと言えば、来る時、日本で着ていた防寒ジャケット、それから、プナに貰ったコピ1袋と、お土産のチョコレート、石鹸、文庫本。これらを全部、身にまとえば、3kgの減量はできるかもしれない・・・・・・。なんて、考えていたら、カウンターの向こうでおねえさんと、その上司が相談をしていて、重量オーバーのままで機内持ち込みOKに。
ルール無用の悪党ばかりでごめんな。でも、君達の努力のおかげで、ぼくらは安心して飛行機に乗り込むことができる。テリマカシ。

出国審査でも運悪く、並んだ列のぼくの目の前の国籍不明の男が出国審査官とやり合っていて、長い時間、手前の白線で待たされた。本当に国籍不明が原因だったのかわからないが、さんざんやりあった上、どうにかその男は放免され無事に出国。その間、ぼくは松葉杖をついたまま、白線の手前側で順番をひたすら待ち続けていた。ひょっとして、出国審査が厳しいのだろうかと恐るおそる書類を提出したのだが、ぼくの時はほとんど書類を見もせずに出国OKに。
ボーディングゲートまでの長い道のりを松葉杖で行く途中、あまったルピアを使うため、ゲート直線のショップの片隅でサンドイッチとビールを注文。イスに腰掛けまったりしていたら、ゲート前にあっという間に長蛇の列ができた。どうもアジア系(またはイスラム系)乗客が、機内持ち込み荷物と全身ボディチェックをされているために列が進まないらしい。

ビールを急いで飲み干し、列に並ぶため、列に沿って引き返し列の最後部へ。そして、無事にボーディング。今回は、アッパーデッキ(2階席)だ。CAに松葉杖とバックパックを預かってもらい、機内の通路をはでにケンケンで飛び跳ねて着座。他の乗客たちが何事かと、ぼくを見ていた。
空港に着いたのが遅かったせいで、ハンディキャッパーとしての座席の優遇はなし。席は通路側なのだが、真ん中辺りの席のため、前方、後方ともトイレも同じ距離だ。
それでも、CAは最大限の努力をしてくれた。2階席じゃあ不便だろうからと、空いていた1階席の一番後ろの席を勧めてくれたのだ。しかし、またケンケンで1階まで降りて席を変わるのが面倒くさかったので、そのままの席に。そうしたら、ジャワ島ジャカルタでの1時間のトランジットの際に、席をアレンジしてくれて、2階席の中央列最前席の通路側に席を変えてくれた。そこなら、トイレが目の前で、しかも、前の席なので痛めている足を伸ばしたままにすることができた。CAに感謝。
トランジット中、座席でおとなしく待っていると、女性から声をかけられた。見ると、バリに来る時の飛行機でお世話になったCAだった。
「また会ったわね」
こぼれるような笑顔で話しかけてくれる。覚えていてくれたんだ。すごく嬉しかった。彼女の笑顔に心がきゅんとなっていた。

夜間飛行のGA880便は、沖縄の西側あたりで夜明けを迎えた。地図で確かめると、早朝の豊海海岸サンライズ九十九里浜に沿って飛行し、片貝~本須加付近で左旋回し、晴天の成田空港に着陸。こうしてぼくの松葉杖の旅が終わった。  了

あとがき
バリから帰ってきて、その2週間後に再入院して、脛骨と腓骨を固定していた足首のボルトの除去手術を受けた。ボルトはレントゲン写真ではかなり太く見え、医者が言っていた「体重をかけて歩けば折れる」は、「折れることもある」だろうぐらいに思っていた。ところが、足首から抜いたボルトを記念にもらったのだが、見たらぞっとした。チタン60E種合金のボルトは、直径が3mmφぐらい。全長45mmに渡ってねじ加工がしてあって、表面は黒っぽい皮膜が形成されている。手に持つと、その軽さと、チタン特有の低熱伝導性から、まるでプラスチックのような感触がするが、精密な機械加工の後を見れば金属製であることが実感できる。
おそらく、表面は生体親和性を上げるため、陽極酸化の黒っぽい皮膜が形成されているのだろう。ねじ加工とあわせて、そのどちらもが表面欠陥としての亀裂の開始点となりうるため、こうしたチタン製のボルトが衝撃で折れるのは無理もない。骨癒合が起こっていない状態で荷重がかかれば、少ない荷重でもその反復によって疲労破壊が起こりえる。さらに、生体内の特殊環境を考えれば、腐食疲労破壊も発生する可能性がある。つまり、骨が固まっていない早い時期に体重をかければボルトは折れて当たり前なのだ。
さすがにバリでは、足首にまともに体重をかけるようなことはしなかったが、それでも、何かの拍子に少しだけ体重がかかることがあった。特に、雨の日のホテルの吹き抜けの廊下は濡れていて滑りやすく、松葉杖が滑って足で踏みとどまったりした。
こんなことを考えると、いくら海外旅行保険があるとは言え、やはり、松葉杖をついての海外旅行はリスクが大きいと言わざるを得ない。

骨折手術後のリハビリのため、海外のプールで筋力トレーニングをという人の参考になればと思い、松葉杖で旅したバリについて書いてみようと思ったのだが、考えてみたら松葉杖で海外へ行こうとする人なんているはずはない。というのも、怪我した時こそ、大手を振って家族に甘えられる時だ。怪我の不幸を家族で乗り越えることで、家族のきずなは強くなっていく。また、怪我で会社を休んでいる間に海外で羽を伸ばしていたともなれば、仕事を代行してくれている人たちにとって気分の良いものではない。だから、普通の人なら、松葉杖をついてまで海外へは行かない。どうやらぼくは、また誰も読んでくれない文を書き上げてしまったようだ。

最後に。バリ島に滞在中、バリニーズたちに「松葉杖でよく来たね」と言われた。
「バリ人だったら、骨折したらおとなしく家で寝ているよ」
と彼らは言う。彼らの言葉にぼくは気がついた。片足が不自由なのにもかかわらず、海外くんだりまで愚かにも足を伸ばすのは、何かトラブルがあっても最悪、お金で解決できると傲慢にもぼくは考えていること。ハンディキャッパーとして、誰かに助けてもらえると世の中を甘く見ていること。人として当たり前の生き方をするバリの人々に、ぼくは自分の傲慢さを教えられた思いがした。
それでも、バリの人々は嫌な顔一つせずに、ぼくと付き合ってくれた。だからこそ、彼らに対する感謝の気持ちで一杯だ。また、いつの日か、恩返しの旅に出てみたい。今度は、もっと積極的に地球を救えるようなイベントのプランを持って。

あとがきー追記
バリのホテルの客室には、ティーセットとしてインスタントのコーヒーとリプトンのティーパックが用意されていた。インスタント・コーヒーの方は、ネスカフェのアルミ・ラミネートのパックでインドネシア豆100%と書かれている。中身は、スプレードライした粉末状のもの。味は日本のエクセラとほとんど同じで、やや深煎りでしっかりした風味でなじみやすい。スーパーマーケットでも、インスタントネスカフェが手に入るが、コピ・バリより値段が高かかったりする。もちろん、スプレードライの加工費がかかるからだ。
一方、プナにお土産としてもらったコピ・バリ。チャップ・クプクプ・ボーラ・ドゥニア(蝶(クプクプ)と地球地図印)社のもので、このメーカーがバリのマーケットを独占しているようだ。200gの銀色をしたアルミパッケージ。
バリの街中や、ホテルの朝食、プナの家で飲んだのもこのメーカーのものなのだろう。強い苦味とコクが特徴で、ブラックで飲むと一段と味が引き立つ。

この土産にもらった銀色の袋のチャップ・クプクプ・ボーラ・ドゥニア。袋を空けると、極細挽き(エキストラ・ファイン・グラインド)とされる「エスプレッソ用」の挽き方よりも更に細かい粉が入っていた。だが、残念ながら、超極細挽きになっているからか、コーヒーの香りはすでに飛んでしまっていて、ほとんどしない。
コピ・バリの正しい飲み方は、まずコピを好みに応じてカップに入れる(1人分ティースプーン1杯程度が目安らしい)。次に、沸騰した湯をカップにそそぐ。そして、静かに混ぜる。その後は、まったりと粉が沈殿するのを待ち、上澄みを口にする。これがバリ式。
さて、日本に帰って来て、さっそく、バリ式の入れ方で飲んでみたが、どうも味気ない。なぜ、現地にいるとコピ・バリがおいしく感じられるのか、全く持ってわからない。いつか観た「かもめ食堂」に出てきた、コーヒーを美味しくするおまじないがあるのだろうか。バリのホワイトマジックは本当にあるぞみたいな。そんな気にさせられている。
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