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tetujin282828

Author:tetujin282828
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ナレェに吹かれて (くめせんにんの右足骨折 顛末記) 
ナレェに吹かれて (くめせんにんの右足骨折 顛末記) 
薄田泣菫(すすきだ きゅうきん)は久米寺の紀行文「三田文学(明治44年)」の中で、”不思議な仙術を得て、あちらこちらと空を駈けずりまはる途すがら、そこいらの河の縁で洗濯女の白い脛を見て、急に地面に落ちたといふ、あの言傳へが氣に入つた”と
書いている。そのなかの記述によれば、空を飛ぶものの用意として、雀のやうに質朴な考へを持たなければならない事、鶲(ひたき)のやうに獨りぼつちで居なければならない事、鷦鷯(みそさざい)のやうに鹽斷ちをしなければならない事、雲雀のやうに唯もう高いところに心を繋がなければならない事が必要らしい。根っから素朴な考えの僕は、パラグライダーをしていない時でもヒバリのように雲の上を心がさまよっていることが多いから、仙人にはなれずとも地面に落ちる要素が多々ある。みそさざいのように塩断ちというのはできないが、高血圧予防のために減塩にも取り組んでいる。もちろん、女性のミニスカートから覗いた”ふつくりと肥えた脛”が見えれば即座に墜落もするのはまちがいない。

パラグライダーのパイロット修行中の筆者は、平成20年1月14日(成人の日)にパラグライダーの着地に失敗し、右足をクラッシュ。大破した。入院生活を余儀なくされ、ネットには上がれない状況となってしまった。入院して気がかりな事が一つ。blogの更新ができなくなった事だ!!毎日更新していた日課が明日からできなくなる・・・・・・。ということで、約2ヶ月に渡る逃病生活を終え、その間、更新が途絶えていたblogをようやく再開できるようになった。もともと、鶲(ひたき)のやうに獨りぼつちでの生活ゆえに、入院中はいろいろな方からお世話になった。お世話になった各位に深い感謝をするとともに、このblogを再開することでお礼に代えたい。

クラッシュ(右足複雑骨折)
高高度フライトにより太平洋と東京湾を同時に見おろし半島を一望にできるここのテイクオフは、この季節では午前中に風が吹き荒れていても午後にはゆるやかになり、夕方にはベタなぎに変わる。冬の季節風であるナレェが吹き荒れる時は、このようにいつも決まったパターンで風が変化する。だからテイクオフに集まった10数名のフライヤー達は、午前中の風が強くて飛べなかった腹いせに、午後になって風が弱まってきたら一斉にキャノピーを立ち上げて飛び発っていった。
いままでに、このテイクオフに何回か通ったのだが、今日のように空に10数機のパラグライダーが乱舞するのを見たのは初めてだった。あいにく曇り空なのだが、色とりどりの機体が自由気ままに飛ぶ様子を見るのは大きな感激だった。

そのうち、強風の中を飛んでいたインストラクターがテイクオフの上空に戻ってきて、風のチェックを始める。テイクオフにそのままランディングするというトップランを決めて、下で恨めしそうに見ていたパイロット見習い僕に「そろそろ行こうか?」の言葉。
すでに、キャノピーに繋がっている沢山のラインのチェックを終えて、いつでも飛び立てる準備を終えていた僕は2つ返事でテイクオフの位置へ移動。
風はまだ強く、一発目のライズアップで右に引きずられたが、すぐにライズアップを中止して位置を戻して再びライズアップ。この辺のライズアップの多少の失敗でもパニックにならずに冷静にやり直せるようになったのが、年末から取り組んだライズアップの自主トレの成果だ。

キャノピーに正対し、クロスハンドライズアップをやり直すと、今度はキャノピーは頭上でぴたりと停止。インストラクターの指示に従い、体を反転させて崖下と直面。体を前傾させて地面を蹴ると、それだけで体は空中に持ち上げられて僕は静かに滑空しだした。
斜面に沿って何度も180°ターンを繰り返し、斜面上昇風を捕らえてソワリングしていたが、10分ぐらいの飛行で上昇風が弱まり高度が落ちて、テイクオフの崖のすぐ下の山道に不時着。ランディングへ向かう前の不本意な不時着だったが、それでも結構長く飛べたから自分でも満足のいくまずまずのフライトだった。

そして2本目
前のフライトでリッジソワリング中に高度を落としテイクオフの崖のすぐ下に不時着して、充分な着陸態勢を取れずにラインを被ってしまったためにこんがらがったラインをチェックしていると、次第に弱くなって止みそうな風を気にし始めたインストラクターからテイクオフに呼ばれた。
ラインを急いで確認し、キャノピーを一気に立ち上げ。インストラクターの指示で振り向いて崖下と正対すると、体を前傾させてテイクオフ。再び、斜面上昇風に体をぐいと持ち上げられ、静かに滑空しだした。風は急速に落ちてきており、斜面に沿ってターンを繰り返しても高度が落ちる一方だったので、ソワリングを諦めてその先のランディングへ向かった。
ランディングでは、やや強めの風力6m程度の風がサイドから吹いていた。東西に伸びたランディング場に対し、北からの風なのだが、このようにサイドからの風を受けてのランディングはいつものことだった。
多少、高度が高く、ランディングポイントへの進入角が高かったため、ブレークコードをやや強めに操作。当然のことだが、サイドからの風に対しブレークコードを強めに引いたことから、機体は風下に向かってグイと向きを変えられた。
そのまま進行してランディングすれば、フォローの風を背負った上に不整地へのランディングとなってしまうためランディングの際のリスクが大きくなってしまう。だから僕は機体の進行方向を直すべく、ゆるいターンで方向修正を試みた。この時、高度は約2m。
その時、機体は失速した。このように2mぐらいの高さからの失速は何度も経験しているのだが、この時に両足で地面に降り立った僕は、ランディングの際に足にかかった衝撃に耐え切れず、もんどりうって地面へ転がってしまった。

立ち上がろうとして、右足首から下の感覚がどうもおかしい。右足が痛いことは痛いのだが、それほど激痛というほどでもない。右足のつま先を見ると、外側に45°ぐらい開いているうえに、力が全く入らない。
ひどい捻挫だろうと思う気持ちと、時おりこみあげてくる吐き気に、ひょっとしたら骨折かもしれないと恐れる気持ちが入れ混じる。

<ヘルメットを脱いで横になれ>というランディングディレクタ-の指示にヘルメットを脱ぐも、仰向けになることができない。古来より人は足を怪我した時は、本能的に逃げられる体勢として膝をついた4つんばいの姿勢をとるのかもしれない。
回収用のランドクルーザーがすぐにやってきて僕を車へ。とりあえず左足が機能するので、抱えられながらもなんとかランドクルーザーの助手席へ。狭い山道を登ってテイクオフまで戻ると、近くに停めてあったメンバーの車に移動して近くの病院へ。車を運転し、病院まで付き添ってくれたのは女性メンバーの一人Yさんだった。

救急病院
運び込まれた病院は、県でも昔から有名な整形外科がある病院だという。その病院へ向かう途中、携帯電話で受付に電話して、氏名、症状などを連絡し、救急の手配を依頼した。Yさんの言うところによれば、いきなり自家用車で病院に駆けつけても、電話で連絡をしていなければ、すぐには見てもらえないらしい。前にメンバーが怪我した時に付き添った彼女の経験からのアドバイスだった。山道で揺れる車の中で痛みに耐えながら、病院の電話番号をネットで調べて連絡する。だが、携帯電話で病院に連絡するには電波の繋がる見通しの良い区間に車を停めて話さざるを得ない。この病院への移動中は、ある種のショック状態になっていたのかもしれない。怪我の痛みから一刻も早く解放されたいと思う気持ちと、ややもすれば気を失って楽になってしまいたいという誘惑とで僕の心は揺れていた。

山道を何とか降りて30分程度で病院に到着し、すぐさま受付に。痛みに耐えてがんばって携帯で連絡したことが功を奏して、どうやらすんなりと応急処置をしてもらえそうだ。車椅子に座って整形外科の受付で待っていると、ほどなくして名前を呼ばれて怪我した部位のX線写真の撮影。診察台の上で「足首を上に」とか、「こうやってぐいっと横に」などと撮影技師から言われるが痛くてできない。若い方の技師が僕のつま先をそっと動かす。その瞬間、激痛が走り僕はうめいてしまった。「そりゃ無理だよ」もう一人の年上の技師がつぶやく。どうにか、何枚かのX線写真の撮影は終了。
もとの受付でしばらく待っていると20歳台後半と思われる若き女医が現れ、診察室に移動して診察を開始した。診察は簡単だった。怪我をした状況を聞かれたような気がするが、実は女医さんの顔もはっきり覚えていない。やはり、気が動転して放心状態だったのだろう。診察室から僕だけが外に出され、部屋の中には僕に付き添ってくれたYさんが残される。なぜ僕に診察結果を直接言わないのだろうと不安になっていたら、Yさんが診察室から出てきて「骨折」という診断結果と「即入院」の必要性を告げた。
しばらく待っていると、再び診察室に呼ばれ、さっきの女医さんから入院の意思確認があった。どうやら先ほど僕に直接診察結果を言わなかったのは、Yさんを僕の身内の人だと勘違いしたらしい。さて、入院すれば退院できるまでに2~3ヶ月かかるに違いない。整形外科の分野では評判の良い病院と聞くが、なにせ自宅から遠すぎた。そのうえ、会社を休まざるを得ないのだが、そのための諸連絡をするにも、自宅に帰って連絡先を調べる必要がある。また、松葉杖で退院することになるのだろうが、病院から自宅までタクシーで帰るとなると気の遠くなるようなタクシー代が必要になるかもしれない。
一方、病院側として年末に整形外科の受け入れを縮小した事情もあるらしい。受け入れのベッド数が不足していることから、できれば地元の病院に入院してほしいとのことだった。

そんな事情もあって、僕は自宅へ帰って明日、地元の病院に入院することに決めた。時計を見ると午後5時。ひょっとしたらクラブには東京へ帰るメンバーが残っていて、その車に便乗して自宅付近まで送ってもらえるかもしれない。僕は診察をしてくれた女医さんに、地元の病院に入院することを告げた。女医さんはうなずくと、僕の足の応急処置を始めた。といってもできることはあんまりなく、足の形に添った当て木を当てて患部を湿布することだけだった。医療材料の進歩は目覚しいものがある。おそらく、水硬化性のレジン(ゲル状瞬間接着剤みたいなもの?)をサンドイッチにした厚みのある帯を適当な長さに切り、水で湿らせた後に足の裏からふくらはぎに沿わせて密着させる。骨折した箇所を湿布薬で上から覆うと全体を包帯でぐるぐる巻きにしてできあがり。足の裏側に密着するレジンは発熱をはじめ、急速に足の形状そっくりそのままに硬化した。
つま先の部分、はみだした繊維状の硬化した樹脂があちこちに引っかかりそうで怖いのだが、そうしている内にあっという間に応急処置は終了。
<夜中に患部がはれあがって足先がしびれるようなら、救急車を呼んででも病院に行くように>と念をおされる。僕が現在一人暮らし中ということを聞きつけたYさんが、今夜を一人で過ごすことをすごく心配してくれた。だが、僕はなんとなく自宅の方がゆっくりできそうな気がしていた。

自宅までの道中
クラブにまだいたメンバーに連絡が取れ、今夜、東京方面に行く予定のH氏が僕を自宅まで送ってくれることになった。病院の会計で支払いを済ませ、他の病院に入院することになるため紹介状を書いてもらった上に、松葉杖のレンタルの手続きをしているとH氏はやってきた。
H氏のトヨタ・アリオン ウェルキャブ 助手席リフトアップシート車は、助手席が90℃回転し、スムーズに車外へスライドダウンする仕様だった。全自動で助手席のリフトアップが可能で、僕のような怪我人でもスムーズな乗り降りができる障害者に対してやさしい車だった。実はH氏自身、何年か前にパラグライダーのランディングの際に大腿骨を骨折して入院したことがあるらしい。
「骨折は直るからね」
神様は人は空を飛べないようにこしらえた。人間は空を飛べないにもかかわらず、パラグライダーで空を飛ぼうとするからには落下事故は避けがたく、怪我はつきもので覚悟しなければならないとのことだ。彼自身、何年か前に骨折事故にあっているのだが、それには全くめげていないようで、毎週、フライトを楽しんでいる。少しは、ランディングの時に慎重になったかなと笑う彼に・・・・・・想いっきり同感。治ったら、絶対フライトするぞ!!!
自宅までの道中、H氏はいろいろな話で、右足を骨折してショック状態にあった僕を慰めてくれた。お互いの趣味の共通点がパラグライダーなので、話は自然とパラグライダーに関するものになってしまう。パラグライダーで着地に失敗して怪我をしても懲りない面々は、夕闇の中、3連休の最後の日で込み合う高速をヒタヒタ走り続けた。

H氏に自宅まで送ってもらって、心配そうな彼と玄関先で別れる。これからは一人で行動しなければならない。とりあえず、ケンケンでキッチンの冷蔵庫へ。家の中は松葉杖をついて歩き回るほど広くはない。明日から入院が必須だから、留守中に冷蔵庫の中で腐ってしまいそうな食品をすべて冷凍庫へ移動。買い置きの牛乳などを含め、冷凍庫には入りきらない分を今夜の夕食と明日の朝食に。冷蔵庫にあるもので簡単な夕食をすませた後、2階の寝室へ。階段に腰をかけて階段の手すりを頼りにずり上がり、廊下をケンケンで抜けてベッドへ。痛む右足をなだめつつ、パジャマに着替えて就寝。翌朝、朝食を終えて9時になったのを見計らって、あちこちへ電話。
会社へは、昨日崖から落ちて足を複雑骨折し今日から入院することを報告。入院先の病院や入院の期間など詳しい情報は追って連絡することに。宅配便で毎週送ってくるDVDのレンタルビデオ屋には、メールを入れてしばらくはレンタルの中止を申し込む。また、毎週火曜日に、生鮮食品を配達してくれる生協へは、注文した今日の配達分をキャンセルしてもらった上に、しばらくは食品類の注文の中止の連絡を。
さらに、自宅の近くの個人開業医の外科病院に電話して、骨折手術ができる近くの大きな病院を紹介してもらう。そして、ネットで近くのタクシー会社を探して送迎を依頼。いよいよ、地元での入院生活が始まる。

入院生活のはじまり
昨日受診した病院の紹介状を携えて、電話で教えてもらった外科手術ができるという大きな病院までタクシーで行き、松葉杖をついてやっとの思いで受付に着く。受付の女性が病院に備え付けの車椅子を勧めてくれた。X線検査、それから、診察という昨日の救急と同じパターンになるのだが、ここでも車椅子であちこち移動することに。
整形外科の医師は40代後半の細いフレームの銀縁めがねをかけたまじめそうな先生。
レントゲン写真を前に、昨日の女医と同様に骨折した骨の状況を説明してくれる。
着地の際の衝撃で、まず右足のかかとが脱臼して、その後、すねの太い方の骨(脛(けい))骨を支えている足首の関節の後ろの部分がコナゴナに砕け散ってしまっているらしい。その上、脛骨&緋骨(ひざ下の骨2本)を繋いでいるじん帯が切れてしまっている。脛骨は足首のすぐ上でポッキリと、緋骨はすねの上部ではく離骨折していた。
とにかく、すぐにでも入院して手術が必要とのこと。入院することになるだろうなと思いながらも、その準備をしてこなかった僕は一度家に帰り、必要なものを荷物にまとめた上で夕方に病院を再訪して入院ということに。
病院側からは入院の意思の確認があるものの、これは形式だけのことだ。入院が決まれば、血液検査などいろいろな検査を受けなければならない。そうした検査が一通り終わったのが午後2時。
とりあえず、婦長(ナース長)さんに入院手続きをしてもらい、外出許可を取り付けて、先週、この病棟へ転属になったばかりという最年少の美人ナースに車椅子を押してもらって病院の玄関を出てタクシー乗り場へ。わずか10分程度の入院ではやくも病院を脱出。
ナース長から渡された入院に必要なもののリストに沿って、バッグの中に着替えやバスタオルなどを詰め込んでまたタクシーを呼ぶ。
家まで迎えに来てくれたタクシーの運転手は、今朝と同じ運転手さん。朝、タクシーの中でいろいろ話をしたのだが、診察の結果入院が決まったことを告げると心配して優しい言葉をかけてくれた。こんな時、人のやさしさが本当に心にしみてくる。

タクシーで病院に戻る途中ポケットの中の携帯電話が鳴り、出たら会社の同僚からだった。とりあえず、入院が正式に決まったことを連絡。みんなが心配してくれている・・・・・・。
病院のナースステーションに着き、案内された病室の窓側ベッドを与えられ、荷物をベッドの脇のロッカーに放り込んで体をベッドに横たえた。ぼくが外出している間にすでに提出ずみの個人情報を元にして、ぼく用の完璧な看護計画ができあがっていた。この看護計画を作ってくれたのが、病院でNo.1、No.2を争う美人ナース。ぼくはこの先、彼女が病室に様子を見に来てくれるたびに心やさしく有能な彼女に心をときめかし、頭の中だけはばら色の入院生活を送る事になる。
今朝、朝食が終わってから飲んだ鎮痛剤の効果がとっくに切れて、足はひどく痛む。ベッドで横になっていると、ナースたちが代わるがわる心配そうに覗きに来る。
簡易ギブスから覗いている足の指はパンパンに腫れている。しばらくして、ぼくの手術を担当する医師がやってきた。
若い。モンキッキーに似たかわいらしい顔つきで、話す言葉はかなり断定的でためらいがなく信用できそうだ。もう、こうなったら、四の五の言っている場合じゃない。若き医師にぼくの右足を任せるしかない。
レントゲン写真の結果と合わせて、今後の大雑把なスケジュールが医師から告げられた。足首の脱臼は、事故直後の救急の際から変化はなし。つまり、昨晩一晩で、脱臼した関節が独りでに正常に戻ってくれている・・・・・・ようなことはないらしい。
だから、足首を牽引(たぶん、ケンインってこの字じゃないかと)。そして、様子を見て手術。ギブスを巻いて、翌週の金曜日ごろに退院できるかもとのこと。
退院まで2~3ヶ月かかると思っていたぼくは、2週間程度で退院できるという彼の言葉に驚いた。骨折して2週間で退院???
今後、ぼくの入院はどうなっちまうのだろうか?

若き医師、モンキッキー氏
麻酔に対する副作用の有無や過去の病歴を確認されたうえで、いよいよ足首のケンイン。若き医師、モンキッキー氏は当直のナース達が運搬してきたワゴンからポリ袋に入った筆状の物を取り出す。
どうやら正確な薬品名はわからないが、ヨードチンキ状のもので足首のまわりを殺菌するようだ。
消毒が終わると次は注射。これが結構痛い。
局所麻酔剤なのだ。足首の下の方に注射針をつきたてて、麻酔薬を中に送り込む。最初は、比較的浅いところへ。そして、さらに奥に注射針を挿入。注射針の根元まで針は足首に挿入。その様子を見ていて、思わずベッドのへりをわしづかみにしてしまう。
注射の間、動かないように言われるのだが痛い。医師のモンキッキー氏を本能的に蹴飛ばしてしまいそうになる。
くるぶしの外側の注射が終わって、今度はくるぶしの内側。外側と同じ手順で、徐々に足首の内部の奥まで麻酔薬を注入しながら針を押し込んでいく。そして、ついに10cc程度の麻酔薬の注入は終わった。足先にしびれを感じるものの、先ほどまでの痛みはない。
足首の局所麻酔が効いていることを確認してから、今度はナース達に手伝わせて電動ドリルを組み立てて、足首にそのステンレス製の先端を挿入する。ドリルの回転する嫌な音が病室に響く。足首にワイヤーが通ったこの時点で、もうどうにでもしてって感じだ。
足首にワイヤーを貫通させ、ワッシャー状の円板を足首の両側にかませてから、ワイヤーの両端を折り曲げる。
そして、ワイヤーの両端に治具を取り付けて錘がぶら下がるようにする。こうして、足首に固定された治具ごとぼくの足首は5kgの錘でずっと牽引されることになった。
牽引台をロープでベッドのフレームにくくりつけて、ぼくはベッドから身動きできない状態に。
ひととおりの注意事項を説明した上で、モンキッキー氏は病室から退却。残った若い2名のナース達が、
「がんばったね」とか
「もう、山は越えたわよ」
など天使のようなやさしい言葉をかけてくれて、足首の患部の不要な部分のヨードチンキを洗浄剤でふき取ってくれる。
「サービスよ」
と言いながら、きれいにふき取れなかった部分のヨードチンキをぬぐうため、アルコール液入り綿棒の入ったパックを新たに開けてくれた。ようやく、極度の緊張から解かれたぼくは、少しは気の利いたジョークをと、そのアルコール液入り綿棒のパックに書かれていた商品名をもじって
「ハイボールってウィスキーのカクテルなんすよね」
なんて言うと馬鹿受けしてくれる。こんな寒いジョークで笑いこけてくれる2人のナース達は天使のように思えた。

・・・・・・今、この文章を書いていて、その”アルコール液入り綿棒”の商品名がなんだったのかネットで調べているのだが、いくら調べてもわからない。ひょっとしたら、あの時の会話も、ぼくの言った冗談にナース達が笑いこけてくれたのも、麻酔で頭がもうろうとして見た夢なのかもしれない。でも、夢でも良い。ぼくは2人のナースに見守られて何とか入院生活を乗り越えられそうだった。その時のぼくはそう思っていた。
手術する方の足、つまり右足の親指の爪にマジックで★をマーク。手術の際に間違えて違う足にメスを入れないための配慮らしい。さらに、患部の脈を取るため、足の甲の部分で脈がとれるところに×印。ここを目標に脈の有無をチェックするようだ。
足が腫れていて脈がなかなかとれないらしいのだが、指先がちゃんと動くから神経ともに血管も正常な状態なのだろう。

入院初夜
しばらくすると夕食の時間になり、ベッドサイドのテーブルに先ほどのナースが食事を運んできてくれる。メニューはとんかつ。
入院前に摂っていた食事よりも明らかに量が多く、しかも塩分が高くて・・・・・・おいしい。んで、完食。
午後20時に見舞い客達が病室から追い出され、そして21時には病室の消灯。よい子たちのおやすみの時間となる。消灯までヒマをもてあましていたぼくは本を読んで時間をつぶす。

その夜は鎮痛剤の効果でひどい痛みは感じなかった。ただし、眠りに引き込まれそうになった瞬間に、筋肉の緊張が解けることによってずれていた関節が元に戻ろうとして、その瞬間に足首に猛烈な痛みを感じた。痛みはすぐに治まったので、ぼくはこれで関節が元にもどったものと考えていたのだが、実は数日後に撮ったX線写真の結果では関節ははずれたままだった。残念ながら、元に戻ろうとした関節を、痛みとともに緊張した筋肉で押しとどめたに過ぎなかったようだった。
夜間、当直のナースが見回りを兼ねて定期的にぼくの様子を見に来てくれる。そのナースの来訪を覚えているのは、実は一晩中眠れなかったからだ。

翌朝、用意されたチューブ付きの尿器つまり尿瓶で排尿。局所にあてがったプラスチックにつながったチューブがなんと折れ曲がっていて、ベッド下に置いた容器に流れ出ずにシーツの上にフロー。やっちまった。・・・・・・まるで、おねしょをしたみたいだ。
その後、10分ぐらい、どうしようかあれこれ思案して躊躇していたのだが、意を決してナースコール。
当直していたナースが
「どうしました」とインターフォンで答える。
「忙しくなかったら、お願いがあるんすけど・・・・・・」
ナースは飛んできてくれて、濡れたふとんやパジャマ、および、下着を新しいものと交換してくれた。
ベッドに繋がれて身動きできない悲しさを味わった瞬間だった。・・・・・・なさけない。
朝、交代した新しいナースが、排便用におまるを用意してくれる。若い男性のナースだった。
一応、ベッドの上におまるを置いてその上にお尻を乗せて、上半身だけ起こしての排便に挑戦したものの、出ない。
まあ、便秘は入院生活では良くあることのようなので、自然に便意を覚えるまで待つことに。

入院生活2日目
1月14日(月)に骨折。その翌日、1月15日(火)に入院。そして手術は1月18日(金)。入院2日目のぼくに知らされた手術のスケジュールだった。手術まであと2日。
入院2日目の今日は、ベッドの上での一番の仕事が排便と排尿。
チューブ付きの尿瓶で今朝、大失敗をしてしまったことから、普通の形の尿瓶をもらって、おしっこはなんとか失敗しないではできるようになった。問題はウンチ。まわりの患者の様子を伺うと、手術の日の朝は、直腸を空にする必要があるとのことで、無理やり浣腸をしてでも排便させられるようだった。
どのみち浣腸されるのなら、出なければ出ないでいいや。なんて後ろ向きの思考をもする。
夕方に家人が来てくれて、手術を担当する医者から説明を受けた。受験する子供達を抱えた上で、おなじく入退院を繰り返している義理の父の面倒を見なければならない彼女に対して、忙しいにもかかわらず来てくれたことに対する感謝の気持ちで一杯になった。

翌日を、日中は本を読み過ごす。3交代のナースたちがどんどん替わっていくので、初対面のナースたちに面倒を見てもらっているのだが、みんな考えられないくらいにやさいい人たちだ。
ナース達は時間をおいて日に4回、体調を変化を伺いながら体温と血圧を測りに来てくれ、その時にいろいろ励ましの言葉をかけてくれる。退屈な入院生活の中で、彼や彼女たちの心からの笑顔に心がいっぺんに晴れていくの感じていた。
こんな楽しい会話を入院前はしばらくしていなかった。反省がこみあげてくる。もっと、人にやさしくならなくちゃと。

手術は下半身麻酔で行われる予定だが、手術前には直腸の中を空にしなければならない。というのも、たとえ下半身麻酔の予定であっても、麻酔の効き具合などから手術中に全身麻酔に切り替える事もあり、この時に肛門の筋肉が弛んでウンチをもらしてしまうことを防止するためらしい。明日の手術前の朝の快便を祈って、夕食後に下剤をもらって飲む。
年に1回、会社で行われる習慣病検査で、バリウムを飲んだときにもらう下剤はいつも効いてくれていたから、今回も同じように効いてくれることを祈るしかない。

夜にナースがやってきて左手に点滴開始。今晩から手術の時間まで飲まず食わずになるのだが、脱水症状にならないように電解質の水溶液を滴下させるようだ。
左手の点滴のチューブが体の上を這って、ベッドの右側に置かれた点滴スタンドに繋がれる。これはスペースの関係でこうならざるを得ない。だが、寝相の悪いぼくは、左手にささっている点滴の針をはずしてしまいそうで怖い。ナースはその辺を充分に理解しているらしく、点滴の針が抜けないようにテープで厳重に止めてくれた。

手術当日
手術は午後から。今日の2番目の手術の順番となるようだ。食事は今朝から絶食となり、水分はすでに昨夜12時から摂取を禁止されている。今朝の排便の有無を聞かれ、まだしていないことを伝えるとナースはでかいイチジクの形をした浣腸の薬をもってくる。
「どうしてもやらなきゃダメ?」
スタジオジブリの”魔女の宅急便”のキキにそっくりのそのナースは
「どうしても!」
と答える。キキは初日にチューブ付きの尿瓶を持ってきてくれたナースだ。一人身のぼくをいろいろ心配してくれてもいた。

ぼくがこんな感じで浣腸をためらうのは、彼女には先刻予想済みのようだった。
<絶対に浣腸しなくちゃ>という彼女の言葉に抵抗をあきらめて、せめて自分で浣腸するからとやり方を彼女に教わる。
なにしろ、教わる相手が”魔女の宅急便”にでてくるあのキキそっくりの女性だ。
その手の趣味があれば最高のシチュエーションなのかもしれないが、あいにくそんな趣味は持ち合わせていない。
羞恥 羞恥 羞恥 羞恥 羞恥 羞恥。。
「できなかったら呼んでください」
という彼女をカーテンの向こうに追い出して、ぼくは彼女にセットしてもらったベッドのおまるの上で寝巻きタイプのパジャマの前を開いた。
なお、下着は入院の際にT字帯なるものを買い求めさせられ、それをつけている。つまりはふんどしだ。
大部屋の病室の他の患者達に気を使いながら、ぼくはカーテンで仕切られたベッドの上で思い切り力んだ。
その結果、なかなか出はしなかったが、それなりに・・・・・・出た。すかさず、フタを。
しばらくしてキキが様子を見にやってくるのを待って、無事にミッションが終了したことを報告。
浣腸しなくても許してもらえることに。

キキと交代で来たのがショートカットが良く似合うナース。Mさん。彼女はさっぱりした性格でどちらかと言えばMと言うよりはSっぽいのだが、その辺の詳細は後から書くことにしよう。彼女はぼくに顔のヒゲを剃れと言う。怪我をした月曜日から金曜日の今日まで一度もヒゲを剃っていなかったので、ヒゲの薄いぼくでもそれなりにむさくるしくなっている。だが、持参したシェーバーではヒゲが長すぎて良く剃れない。売店で安全かみそりを買ってきてもらうが、面倒見の良い姉御肌の彼女は念のため予備のT字帯も買ってきてくれた。洗面器にお湯を用意してもらって髭剃りが終了。

午後になり、その時を待っていると他の病棟から移ってきたばかりという一番最初に出会った顔見知りのナースがぼくのベッドにやってきて、爪きりとテイモウをするという。若い子のくせにさすがは悌毛などと専門用語を使う。
ぼくの手の爪を切ってくれようとするのだが、爪ぐらい自分で切れるからと自分でやる。手術中、麻酔が効いている中で無意識に爪で自分を傷つけないために爪を切るのかなと思ったら、そうじゃなくて爪にはばい菌が潜んでいるからとのこと。
次に電気バリカンで足のスネ毛の悌毛。
髭剃り用の電気シェーバーじゃあ、長い毛は剃れないことを教えてあげると、生まれてから一度も電気シェーバーでヒゲを剃ったことがないという彼女は大げさに喜んで話を聞いてくれる。若い女性が電気シェーバーでひげを剃ったことがないというのは、当たり前のことなんだろうが・・・・・・。
入院してから、若いナース達といかに話をしようかと悩みを感じていたのだが、こんなつまらないぼくの話でもちゃんと若いナース達は聞いてくれる。まだまだ日本は、捨てたものじゃない。

そして、手術用の寝巻きに着替えさせられ、手術室から呼び出しがあるまで待機。この待ち時間が長く落ち着かない。手持ち無沙汰の時間に、押しつぶされそう。
家から持ってきた文庫本のうちの1冊を読んでいると、ようやく呼ばれた。いよいよ手術だ。点滴スタンドをベッドの支柱に差込み、ぼくはベッドに寝たまま長い病棟の廊下を手術室に向かって運ばれていった。廊下ですれ違う人たちに励ましの声をかけられ、Vサインで答える。昼前に手術の立会いに来た家人が、心配して後ろからついてくる。
ベッドを押してくれている一人は、ぼくの看護計画を作ってくれたあの憧れのマドンナだった。彼女は手術室に消えるぼくに笑顔で手を振って見送ってくれた。もう、心残りはない。死んでも良い。
よく映画で手術の際に医者が患者に名前を訊ねるシーンを見かける。よく見るのは麻酔が覚めて、患者の意識が正常に戻ったかどうかを確かめるために名前を訊ねるのだが、ぼくは名前を聞かれたら、覚えたすべてのナース達の名前を言ってやろうと決心していた。
つまらない冗談で場が受けてくれるから、そんなことで手術の現場がリラックスしてくれればと思ったのだった。
無菌のための厳重な空調を施した2重のドアの手前が開けられた。いよいよシャバのおいしい空気とはしばらくのお別れだ。

手術室
手術用ライトが煌々と灯る広い手術室に移された。手術着に着替えた担当医であるモンキッキー氏に再会。ところが彼の目には殺気が宿っていた。もとい、手術を控えて彼の目が真剣だった。お約束どおり名前を聞かれたのだが、ここで変なことを言ったらメスを足に突き立てられかねないようなピリピリと緊迫した雰囲気だった。
ぼくは、顔をこわばらせながら・・・・・・本名を告げる。名前を聞かれたのは、手術の際に人を取り違えないよう確認のためだった。
そして、脊柱に麻酔の注射。横になって足をかかえて丸くなったぼくの腰骨に注射針がつきたてられる。
そのうち麻酔が効いてきて、足の指に触られても無感覚に。
麻酔は徐々に膝から大腿部へと効果をあらわし、さわられると肌にピリピリとした感触があるのだが、針で突付かれても痛みは感じなくなる。麻酔が完全に効きだしたのだと言う。

足をまっすぐに伸ばしているつもりなのだが、親指の爪に★マークが入った見慣れた自分の足が視野に入る。自分の下半身は顔の前に下げられたカーテンで見ることができないから、ぼくの右足は自分の感覚とは別にかなり高い位置に持ち上げられていることになる。つまりは、麻酔により足の感覚が麻痺しているということ。

手術室には軽音楽が流れていた。手術前になにか音楽のリクエストはと聞かれてジャズをリクエストした。手術室のうす緑色の白衣を着たナースが電話でリクエストしていたから、流れる音楽は有線放送なのだろう。流れていたイージーリスニングが切り替わって、ビッグバンドの落ち着いたジャスオーケストラが流れた。それなりに心地よい。

手術開始後、2時間が経過。その間、枕元にいた2人のナース達は緊張を解きほぐしてくれるつもりなのだろうが、いろいろ話しかけて来て、手術の経過なども実況中継してくれていた。
「音がしますよ」
ウィーンという回転音に、ぼくは自分の右足の骨にボルト止め用の穴を開けられているのを想像した。実際にはドリルの感触はない。
モンキッキー氏も、痛みはないかなどいろいろ問いかけて来たのだが、手術を終えた今では手術中にどんなことを聞かれていたのかはっきりとは思い出せないでいる。やはり、緊張と不安で心がそこにあらずだったのだろう。
モンキッキー氏から処置終了が告げられ、開口部を縫って手術は終了とのこと。手術開始から3時間。予定通りの工程だったようだ。

手術の感想を問われれば、その現場は結構、会話が多かったことだろうか。医師や手術室のナース達を合わせて全部で6人ぐらいが手術に立ち会っていたが、それぞれに相手を見つけてめいめいが絶え間なく会話していたような気がする。まるでお通夜のように、無言で進行する手術よりも好ましいものであることは確かだ。しかも、その会話の中に、ぼくも混ざって話をしていた。
足にギブスを巻かれ、ようやく手術室を脱出。出迎えてくれた病棟の2人のナース達の笑顔が素敵だった。
それなりに緊張を強いられてきたぼくの心が一気に解放されたのを感じた瞬間だった。シャバに戻ってきたんだ。その後ろに、心配そうな家人の顔も見えていた。

ぼくは手術の間、枕元に位置したナース達にパラグライダーの魅力を熱く語っていた。どうやらぼくは、怪我をしてひどい目に会ってもまったく懲りていないようだ。

手術が終わって
また、手術室へ来た時と逆の道のりで長い病院の廊下を渡り、ベッドに横になったまま病室へ帰還。麻酔の関係で、頭を持ち上げるとひどい頭痛が起こりなかなか痛みがとれないらしい。しばらくは頭を動かさないようにと厳重に注意を受けていたため、道行く人々に凱旋のための挨拶はなし。それでも、手術が無事に成功したことをすれ違った患者達から祝福してもらえる。
病室の元の位置へ無事に到着。日もとっくに暮れていたので、医師から手術の経過の説明を受けた家人に帰ってもらって、また一人でベッドで痛みと対話。
麻酔から完全に覚めて、傷口がジンジンと鈍い痛みを発している。
手術室から出てきたぼくに笑顔で手をふって出迎えてくれた元気なナースは、痛みが増してきたら座薬を用意してくれるという。
「痛くなったら言ってくださいね」
というのだが、すでに痛い。ということは、時間がたつにつれ痛みがさらに増してくるということなのだろうか。
21時の消灯時間が過ぎて2時間も経った頃だろうか。鎮痛剤を要求しなければ朝までクスリをもらえないことに気がついて、入院してから2回目のナースコール。
「クスリを・・・・ヤクをください」というぼくに、彼女はすぐにやってきた。
前もって、座薬は(特にナースに座薬を入れてもらうのは)いやだと申告しておいたおかげで、前日まで飲んでいた経口薬の鎮痛剤を手渡される。
クスリを口に含むと、彼女はベッドサイドに置いておいたミネラルウォーターのボトルで水をぼくに飲ませてくれようとする。
頭を絶対に上げるなと言われていたぼくは、寝たままの姿勢でペットボトルから水を飲もうとするが、寝たままだとどうやっても水がこぼれてしまいそうだ。
ひょっとして、ひょっとして、口移しに水を飲ませてくれるかもと、あらぬ期待をしてみたのだが、そんなことはしてもらえるはずもなく、彼女に起こした頭を支えてもらって無事にクスリを飲下。

痛みにともなって熱が出ている。38℃。痛みと熱で眠れない夜を過ごす。彼女が時おり、ぼくの様子を見に来てくれる。
半開きになっていたカーテンの陰から顔を覗かせる彼女にぼくはVサインを送るとにっこりと笑ってくれた。
彼女は寝ているほかの患者の邪魔にならないように小声で、熱とか、痛みとかしびれがないか心配して聞いてくれている。
「もう、ぼくは大丈夫。だから寝てください」
彼女に伝えると、彼女は交代勤務だから大丈夫と笑顔で答えてくれた。
髪の毛を頭の後ろでキリっと団子にまとめた彼女。口元は大きめのマスクで覆われていて顔のつくりは良くわからなかったが、彼女の愛くるしいまなざしにぼくはすっかり彼女のファンになってしまっていた。

ナースM嬢
手術の翌日は土曜日。病院の週末はナース達の数が平日よりも減ってひっそりとしている。
見舞い客もあまりいないし、ナースステーションにあれほど大勢いたナース達やヘルパーさんたちが休みで2人のナースが勤務しているだけだった。
手術後のぼくは、足首を牽引するためにベットにくくりつけられたロープからは解放されてはいたが、あいかわらず、点滴を左手に、尿道にはチューブを差し込まれたままだった。
朝、交代で出勤してきたナースのM嬢に、尿道に突っ込まれたチューブを引き抜いてもらう。
「ちょっと痛いですよ」
手術前にナニの先からチューブを突っ込んだ手術室のナースも、「ちょっと痛いですよ」と言って突っ込んだのだが、
入れる時も、抜く時もめちゃくちゃ痛い。
「だから、痛いといったでしょ」
痛くて思わず涙目になってしまったぼくにM嬢は主張した。まるで母親を思い出してしまうような口調。
どうやら、この一件以来、なにか困ったことがあるとぼくは彼女の姿を探すようになった。これを人は「刷り込み現象」というのかもしれない。

点滴中
応急処置を受けた病院で貸してもらった松葉杖と、そしてここの病院で手術後に貸してもらった車イス。ぼくは2種の機動力を得て、未だに点滴を受けているというのに病院内のあちこちウロツキ回り、ナースたちにあきれられた。
とはいえ、整形外科の入院病棟の廊下は、リハビリのため動き回る患者であふれかえっているのだが。

点滴は針に繋がったチューブの一方に、点滴の薬剤の入ったポリのバッグをつなげて行う。つまり、点滴が必要のない時は、チューブの途中で切り離して腕に留めておき、何度も針を血管に入れ直さなくても良いようになっている。針は常に腕にささったままなのだ。
この状態で松葉杖などをつくと、腕の筋肉に力が入り血管が収縮することにより腕に刺したままの点滴の針を通して血液がチューブ内に逆流することになる。最悪の場合には、チューブや針に凝固した血液が詰まって次回の点滴ができなくなってしまう。そうすると、また腕にあらたに針を刺し直しとなるので、M嬢から今日一日、点滴が終わるまでおとなしくしていてねとのお願いをされる。
そして、夕方の最後の点滴。化膿止めの小さな点滴バッグは1時間ほどで滴下できるらしい。
ベッドにおとなしく横たわったぼくの腕のチューブの先にその点滴バッグが接続されると
<点滴が終わったら呼んでくださいね>と言い残してM嬢は去っていった。
点滴が終わるまでおとなしくせざるを得ずヒマなので、持ってきたポータブルDVDプレーヤーをベッドのテーブルにセットして映画を鑑賞。観たのは台湾のドラマ。トニー・レオンと金城 武が出演する『傷だらけの男たち (傷城)』。連続殺人事件を捜査する刑事もののアクションドラマだった。

ドラマを観ている途中、ふと気がつくと最初は調子よく落ちていた点滴のしずくが止まっている。
「ヤバイ」
ぼくはうろたえて、点滴の速度を調整するピンチコックの閉め具合をいじってみたものの、全く滴下する気配はない。
どうしよう。
一瞬、躊躇した後に入院後3回目のナースコールボタンを押す。
M嬢が元気な声で
「どうしました?」
と聞いてくる。
「あの・・・・・。点滴が止まったんすけど・・・・・・」
M嬢はすぐにやってきた。
これこれこういう具合におとなしく寝ていたんすけど・・・・・・。気がついたら、点滴が止まっていて・・・・・・・。
しどろもどろで説明するぼくを横目に、M嬢は微笑んでチューブをつまむ。
圧力を増した点滴の液が腕に刺した針を圧迫し、針を刺した箇所がかなり痛いのだが、点滴液は続けて滴下してこない。
「怒られると思ったのね」
M嬢は微笑んで、腕から針を引き抜くと新しい針へ交換し、腕の血管の別の場所に刺しなおし。見事な手さばきで注射針を腕の血管に打つ。
結局、新しく点滴針を血管に差しなおすことで点滴の全工程が無事に終了。ぼくはジャンキーのように腕に注射だこを作らずになんとか点滴を切り抜けることができた。

ナース達はたくさんいて名前を覚えるのすら大変だったが、ぼくがピンチの時にどういうめぐり合わせなのか、M嬢はいつもその現場にいた。たとえばシャンプーや入浴など、片足が不自由だとどうしても一人でできない時には、ナースたちの手を借りざるを得ない。そこでナースステーションにいる誰かにお願いに行こうとすると、その途中でいつも彼女とすれ違う。
というか、正確に書くのなら、忙しそうにしている他のナース達に声をかけそびれ、M嬢とすれ違ったらここぞとばかりにお願いしまくったというのが正しい。思えば、まるで彼女のあとを追いかけている雛鳥のようにだったかもしれない。前にも書いたが、入院初心者のぼくは、困った時は彼女に頼めば、そんなにひどい目に会わないとの”刷り込み”学習を受けたのだろう。

医者とのせめぎあい
わが国全体の医療費は、高齢化社会の到来に伴って年々増加傾向にあるのだが、わが国の医療材料や薬剤価格が他の国と比べて高いにもかかわらず、2005年における総医療費の対GDP比は7.9%と先進国の中で最も少ない。また、医療制度改革で国民の直接負担は増加する一方なのだが、国の負担はむしろ減っている。現時点での医療費の個人負担は、原則、3~69歳の患者は3割だ。外科の場合は高額な薬剤や、医療材料などを頻繁に用いることはなく、手術の診療報酬が医療費の大部分を占める。
こうした状況の中、70%の病院が赤字経営で、病棟・病院の閉鎖や統廃合が進んでいる。病院は見た目よりも、案外もうかっていないのだ。また、医療訴訟などのリスクの大きい産科、小児科、内科、外科は数が足らない状況であり、満足な治療が受けられない状況となってきている。このままでは、医療費削減によりダメージが大きい産科を先頭に、地方から中央へ、さらには英語のできるエリート医師はみんな海外に流出してしまうかもしれない。日本の病院医療は崩壊してしまう危機に瀕しているのだ。

今のところ日本人医師の海外への大量流出は、まだ顕著になってはいない。ただし、彼ら医師の本音を聞くと自分達の子供の将来には不安を感じているようだ。
<このままだと日本の大学はヤバイ。たぶんダメになっている。今だってこれなのに、よくなるはずはない>と彼らは言う。
実際のところ、ある程度高齢になったらインドネシアやシンガポールなど海外の病院に移る医師はいる。腕のいい医師、エリート医師が厚遇されることがなく、どの医師にも均等に診療報酬が配当される今の日本のやり方では、待遇に不満のある力のある医師達は、やがて、自分の実力を応分に認めてくれる海外へ行く。資源小国の日本は、経済がダメになるだけでなく知力でも勝てなくなったら未来はない。財務省は医療費削減を絶対とし、厚労省は診療報酬を下げたいらしいが、それは優秀な医師が日本を抜け出す機会を広げるだけだ。数値目標だけの医療費削減は亡国の策であることに、政治家も官僚もまったく気づいていない。

今の日本で、赤字に苦しむ病院がとる経営意方針としては、少しでも医療コストの高い治療を優先的に施すことであるのは当然の帰却だ。だから、外科に関して言えば、長期に渡る入院患者の面倒を見るよりも、新しい患者を獲得していかに手術の数をこなすかにかかってくる。そのうえ、特に椎間板ヘルニアに対して腕の立つと評判の医者がいる病院では、手術を希望する患者で入院が順番待ちとなっている。
こんな事情から、入院患者と医師との間で入院継続に対するせめぎ会いが起こる。
医者にとってみれば、手術の経過が順調で特に問題がなくリハビリしか患者に要求することがなくなれば、その患者は邪魔でしかなくなる。もう手術の必要のない患者の入院医療費では、日本の病院は儲からないシステムだからだ。
だから、医者は治療の必要のない患者に対しては、退院しての自宅養療を無理やり勧める。一方、患者としては、歩くこともかなわない不安な状態で完全看護の病院から追い出されそうになるので、せめて松葉杖がとれるまではと退院の先延ばしを医者に請う。
実際、松葉杖をついての自宅での養療は、長い入院生活ですっかり体力が落ちてしまうこともあって、日常生活には相当の不自由をきたす。松葉杖の歩行は意外と体力を使う。真冬でも300mも戸外を歩くと汗が吹き出してくるし、上腕や脇がかなり痛くなる。いつかは退院しなければならないのだが、万が一慣れない松葉杖で転んでひどいことになったらと、患者側からしてみれば退院には不安にならざるを得ない。こうして担当医と患者の退院時期についてのせめぎあいは、病室での日常行事にように毎日繰り返される。

整形外科というところ
ぼくが入院していた整形外科病棟には、骨折も含めて40数人の入院患者がいたのだが、毎週末ともなれば何人かの患者が松葉杖をついて、あるいは車イスに乗ったまま退院していった。彼らは社会復帰には程遠い状態で出て行った。残された長期の入院患者たちは、退院していく患者達を複雑な気持ちで見送ることになる。
そして週明けになれば、次から次へと新しい入院患者たちがやってきた。
雪で転んだり交通事故で怪我をした人たち、脊柱管狭窄症で手術を受ける人たち、手術を前提とした検査入院の人たち。ぼくは入院中に何人もの人たちと親しくなって、そして何人もの人たちを見送ることになった。みんな笑顔で退院していくが、彼らは一様にこれからの生活に不安を隠しきれないでいた。

入院患者は、下は3歳から上は90歳を越える高齢者までいるのだが、平均すれば60歳代ということになろう。日本の高齢化社会の一面がこの病棟の平均年齢に現れている。そして男女の比率は4:6で女性が多い。入院患者に年配の女性が多いことから、病棟内の雰囲気は推して知るべし。女性の病室は4人部屋であれ、6人部屋であれ、ベッドのまわりのカーテンは日中は開けっぴろげで、彼女たちはベッドに横になっている。
だから、病棟内の廊下を松葉杖をついてウロウロ歩き回っていると、女性たちが入居している病室の入り口から一斉に注目を浴びてしまうことになる。
一方、男性の病室はベッドまわりのカーテンが締め切られ、ひっそりと静まり返っていて話し声すら聞こえない。
病室には、見舞い客達がそれぞれの知り合いの患者の元へ押し寄せるのだが、他の入院患者に気遣うことは少ない。すべての見舞い客がとは言わないが、彼らは見舞いに来た患者を元気付けるためか大声で喋り散らし、病院の食事の時間も構わずに通路をふさいでナース達の仕事の邪魔をしたうえで自己満足して帰っていく。
病院には見舞い客用に談話室(兼食堂)を用意しているのだが、そこでたむろする見舞い客たちは、入院患者の食事の時間でもそこに居続けようとする。このため、患者同士で会話をしながらの食事をするささやかな楽しみを奪ってしまう。
見舞い客にすれば忙しい時間を割いてきたのだから、面会中に患者を一生懸命元気付けようとしてのことなのだろうが、無関係の人間からみれば邪魔くさいことこの上ない。

「飯待つ間」
正岡子規が晩年に「飯待つ間」という有名なエッセイを残した。
子規は周知のとおり、一生の大半を病気とともに過ごした人だ。とくに29歳から亡くなるまでの約7年間というものは、脊椎カリエスのために病床を離れることができなかった。それにもかかわらず、子規の著作は膨大なものに及ぶ。
朝食をとらない子規は、昼飯が待ち遠しくて仕方がない。その飯を床の中で頬杖ついて待ちながら、庭の木を見たり、庭の向こうの路地で遊ぶ子供の声を聞いたりしている。そのうち飯が来る。それだけの話だ。しかし、これを読むと人生というのは、結局、「飯待つ間」なのではないかという気がしてくる。
子規のエッセイを持ち出すまでもなく、入院生活で少ない楽しみの一つは食事だ。外科病棟は他の内科病棟などとは異なって、特に問題がなければ常食と言って普通の食事がでる。もちろん、高齢者の場合は糖尿などを患っているから食事制限が必要なのだが、
ぼくのようにスポーツで怪我をしたなどという希少な患者に対しては、体力を維持するための献立にしてくれているようだ。
この常食がうまい。先にも書いたが、普段、家で食べていた粗末な食事よりも味が濃く、エアコンで乾燥した病室内の空気と相俟って、入院中はしきりに喉がかわく。

普通の入院患者は、常食を毎食残さずに食べていても体重は減るものらしい。入院中は無分別に間食ができないこともその理由のようだ。また、アルコールはご法度なので、病院食で摂取するカロリーは必然的に少なくなるのかもしれない。
ところがぼくの場合、入院5日目に体重を計ったら、体重が人生最高値を記録したからあわてた。
昨年、10数年ぶりにスキュバダイビングに復帰した際に、若い頃作ったウエットスーツがきつくて、なんとか当時の体型に体を戻そうといろいろ努力をした。段々だった腹筋は脂肪に変わっているが、どうやら減量には成功し、サイズ的には当時と同等になったと喜んでいた体重を5kgもオーバーしていた。それも、入院してたったの5日間で。
骨折した足を直すため、病院での食事をすべて完食しようと思っていたのだが、こうも太りだしたらたまらない。
ぼくはナースにお願いして、食事の量を半分にしてもらえるように頼んだ。そして、鶏肉以外の肉は摂らないようにダイエットを開始した。病院側でも、ダイエットメニューのリクエストはある程度聞いてくれて、メニューのアレンジが可能なようだった。
こうして、ぼくは食堂の隣の席で食事をする60歳代の男性と同じ食事のメニューながら、ご飯の量は半分で入院生活を続けることになった。また、味が濃すぎる食事については、今後の体調を見てどうするか決めることに。

入院患者たち
整形外科の入院患者の8割は、脊柱管狭窄症など椎間板ヘルニアの手術患者だった。入院して検査を受けて1週間程度で全身麻酔による手術。手術後に経過を見るのだが、個人の体型に合わせた特注のコルセットを装着し、退院に向けたリハビリを開始。手術後は2~3日、歩行器という体の半分を預けられる足にローラーがついた台を使って歩いていたかと思うと、そうした補助の機器なしであれよあれよと言う間に歩行をはじめ、手術後1週間で退院していくパターンだった。つまり、腰痛の手術患者は、入院から2週間もあれば晴れて出所ということになる。

さて、残り2割の患者の半数は、自損他損も含めて交通事故の患者たち。バイクで事故った若者や、軽自動車同士で正面衝突して足を骨折したオバちゃんなどだ。
この場合、事故の加害者と被害者で当然のことながら入院患者の態度は異なる。不幸なことに加害者になってしまった場合は、各種保険が適用されようが彼らの気持ちは非常に複雑だ。食事に病棟の食堂に出向くと、交通事故の加害者となってしまったそのオバちゃんがいた。話をすると、そのオバちゃんは出身地がぼくの母親と同郷。そんなことから、彼女が退院するまでの2日間、彼女の隣の席に座って食事をしながらいろいろな話をした。
彼女の夫は昨年の夏に脳溢血で倒れて、現在もこの病院の神経外科病棟に入院中らしい。その後遺症で四肢が麻痺しており、わずかに右手の指先がかすかに動くだけのようだ。無動きできない入院中の夫を見舞うため、彼女はこの病院へ軽自動車で通っている最中の事故という。
話を聞くと気の毒で、何かの慰めにでもなればと食事のたびに彼女の話を聞いてあげていた。
「もう、絶対に車には乗らない」
と彼女は言った。車に乗らないよう、彼女の長男夫婦の勧めもあるようだ。
ただ、彼女は田舎育ちのせいかひなびた暮らしにあこがれていて、交通の不便なところに彼女の自宅があった。最寄の駅までは歩いて30分以上。おまけにバスも通っていないという。また、近くにはスーパーなどもないらしい。こんな場合に生鮮品の宅配をしてくれる生協のありがたみが実感される。
生協の生鮮食品の宅配の話をすると、彼女はにっこり笑って
<ご近所の方を誘って、生協に加盟している>とのこと。退院してからも、なんとか配達を続けてもらえるように頼んで見るつもりとのことだった。
彼女の言葉には、北関東独特のお国訛りはほとんどない。だが、年配女性特有の話し方で、あちこちへ話題が飛んでいく。ぼくは彼女の話を聞いてあげるだけで何もしてあげられないのだが、彼女は自分の息子よりもぼくがかわいいと言って慕ってくれた。彼女は片手に杖をついたまま、その週の土曜日に退院していった。

「病院へ行こう」
同じ交通事故でも、事故の被害者である場合は様子が全く異なる。
ぼくは右足手術の1週間後、術後経過は順調で当面は骨が接合するのを待つ以外何もすることがなくなって、それまでの急性患者用の病室から亜急性患者用の病室へ移されたのだが、その隣のベッドの若者が交通事故の被害にあったヤツだった。
彼はバイクで直進中、右折車に道を譲った車の脇を通り抜けて、右折してくる車と正面衝突したらしい。典型的な譲り事故というやつだ。
どうやら相手の過失が100%らしく、入院医療費、および、休業補償もしてもらえるようだ。

その昔、真田広之主演の「病院へ行こう」という映画を観たのだが、働かずにお金を貰えるおいしい状態に味を占めたセコイ公務員とその嫁が脇役で出てくる。医者の回診において、大げさに痛がって見せるものの、医者がいないところではアイスキャンディを片手にあちこち歩き回り、入院ライフを楽しんでいる。
彼はまさにそれだった。「如何に相手側の加害者や保険会社に1円でも多くの保障を払わせるか」という講釈が、日夜、病室内で繰り広げられ、同じような交通事故の被害患者を見舞いに来た加害者や保険屋の担当者には、「可哀相に。夕べも身体が痛くて眠れないって、ボヤいてたよ。その人」とか、「毎日、奥さんが遠くから見舞いに来てるらしいけど、そういう交通費って、なんとかしてやれないの?」等と野次のような援護射撃を撃ちまくっていた。また、彼の友達が見舞いに来れば、「一日中楽して遊んで、金はもらえる最高の日々なんだ」と自慢げに話していた。
30代前半の彼は、1歳半になる女の赤ちゃんがいる。入院してから1ヶ月になるのだが、最近は週末に自宅へ外泊。平日は毎日、奥さんと赤ちゃんが午後早くに病室へやってくる。赤ちゃんは活発な子で父親の顔を見ると活性化するらしく、病室内をはしゃいで回る。
奥さんは奥さんで彼の身の回りの世話をかいがいしくするので、彼らが病室に訪れると静まり返った病室がにわかに活気付く。時々、病棟内を父娘で車椅子に乗って散歩。その女の子は女性入院患者たちから、その女の子はアイドルのように可愛がられており、病棟の廊下を彼らが車椅子で通行していくと、あちこちからおやつをもらえるらしい。
散歩から帰ってくると、女の子はおとなしく昼寝をしてくれる日もあるようで、そんな時に彼ら夫婦はゆっくりと話ができるようだった。
夕方5時になれば、病棟の端にある食堂へ家族で移動して備え付けのテレビで子供番組を鑑賞。子供はテレビにかじりついて見ている。
6時の夕食時間になれば、コンビニで弁当を買って毎日駆けつける彼の弟とあわせて一家で団欒。そして、子供と一緒に病院のシャワーを浴びて、8時の面会時間が終了すれば彼らを帰す毎日だった。
彼は主治医から盛んに退院を勧められるのだが、傷口が傷むことを理由にガンとして退院を拒否していた。彼の話を聞けば、彼の勤めている鉄工所の職場には洋式トイレがないらしい。彼は職場の上司にも、「洋式トイレがあればすぐにでも出社します」みたいなことを言っているようだ。
人のことだから、彼がどう考えて生きていこうと知ったことではないが、病院には殺菌剤に対して耐性を持った種々の菌もあることだし、幼い子の院内感染のリスクがある上に、彼の人生において無理に引き伸ばす入院生活が果たしてプラスなのかどうか、ぼくにはわからない。
今のところ、5人部屋のこの病室には退院が見えている患者しかいないのだが、他の病室には認知症のお年寄りの患者がいたり、脳性マヒの上に糖尿病で足を切断したような患者もいることだし、どんな患者が同じ病室に来るかわからない。
子供が隣のベッドではしゃぎまわる以上の騒音や叫び声が病室に響かないとも限らないのだ。それでも、彼らは幼い子を毎日病室へ連れてくるのだろうか?・・・・・・ぼくにはわからない。

病室長
交通事故以外の骨折入院患者は、ほとんどが職場での事故が原因だ。入院当初の病室には、クレーンから落ちた鉄パイプの下敷きになって足を骨折した年配の男性がいた。彼は溶接のベテランの職人さんだった。大手の機械メーカーに勤務していたのだが、リストラにあって現在は派遣会社に所属しているらしい。
事故の際に、背中を向けていた彼に150mmφ×5.5mの鉄パイプが転がってきて足に激痛を感じて、気がついたら右足のつま先が見当たらなかったとのこと。つまりは、右足の骨が折れてつま先が90°以上、後ろを向いていたということ。救急車で運び込まれて、即入院。
チタン製の心材を骨の中に入れて、骨折していた骨を固定。足首は異常がなかったようなので、手術後、リハビリを開始し順調に回復に向かっていたとのこと。ところが足に徐々に体重をかける段階になって、埋め込んでいたボルトがゆるんでしまったらしい。ボルトを締めなおすか、あるいは、抜くかの判断で、医師は抜くことを選択したようだ。
そして再手術。その頃にぼくが病室に入院した。
ぼくより1ヶ月半先行して入院していた彼は、その分、病院のいろいろなことに精通しており、新参者のぼくにいろんなことを教えてくれた。恐らく、大部屋であればどこの病室にもそんな患者はいると思うのだが、彼は男性のほかの病室はもちろんのこと女性の病室にも出入りして、入院中に親しくなった患者達と毎日長々とお話をしていく。まるで、担当医の回診のように。
入院中、わからないことは彼に相談すればほとんど解決することができ、彼は新しく入院する患者達にまるで病室長のように信望があった。
たしかに、入院生活は単調で、ベッドに1日中横になっているとあきる。だから、人と積極的にコミュニケーションをとらないと気が滅入ってしまう。彼は人と会話することで入院によるストレスをうまく発散させているようだった。

彼を見て思ったこと。
人の心を掌握する上で、コミュニケーションが必要だと言うことを改めて認識した。ぼく自身、仕事が研究職ということで、勤務時間中は同僚達とほとんど会話することなしに1日が終わるような暮らしを続けてきた。だが、入院して若い元気なナースたちに、毎日、温かい言葉を始終かけてもらい、そのうえ、彼のような話好きの患者に捕まって逃れようのない会話に誘い込まれ、いつしかぼくは人と会話ができるようになっていた。
ぼくがこの入院生活で得たもの。
右足骨折からの回復以上に、他人とのくだらない会話を面倒くさがらずに積極的にできるなったこと。
そして、いつしかぼくは、病室長以上に話し好きのおっさんになっていた。

「功名が辻」
総勢22名のナース達やヘルパーさん、掃除のおばちゃんたち。それから、顔見知りになった他の入院患者たちの名前を覚え、廊下ですれ違うたびにいろいろな話題を見つけて会話を楽しんだ。
実は、こうした他人への積極的な会話は、ちょうど入院して間もなく読んだ司馬遼太郎の「功名が辻」に出てくる木下籐吉郎、後の太閤秀吉の記述に感銘を受けたからだった。といっても、別に戦国時代の大名になりたかったわけではなく、ただ単に長い研究者生活で身に付いた嫌な悪癖、つまり感情を抑圧する傾向を直したかっただけなのだが。
入院患者たちは基本的にヒマだから、いつでもぼくの馬鹿話に付き合ってくれた。一方、やさしいナース達はすれちがう廊下での短い会話を楽しんでくれる人もいたのが、なかにはウザイヤツと思うナースもいたに違いない。というのも、毎日が単調な変わり映えのしない入院生活では、話のネタがどうしても尽きてしまう。だから話題は、自然とその日のナースの観察結果にならざるを得ない。団子にしていた髪の毛がある朝ポニーテールだったり、スカート派だったのにズボンをはいていたり、メガネじゃなくコンタクトに変わっていたり・・・・・・。当のナースにしてみれば、たまたま朝忙しくて髪の毛をまとめている時間がなかっただけなのに、廊下ですれ違うたびに患者から髪の形が変わっていることを指摘されるので、もうその話題は止めてと思っているのだろう。
だが、それにも増して、ナースの反応は人によって異なり個性が現れた。
人はそれぞれ違っていて、実に面白いと感じる毎日だった。

ところで、やさしいナース達に毎日一定時間ごとに血圧を測ってもらうときに、ぼくはいつも一瞬の指先の痺れを感じていた。しかもこの痺れは特に、スタジオジブリの”魔女の宅急便”のキキにそっくりのナースに測ってもらう時がひどかった。とうとう腕にまで障害がやってきたのだろうかと一時は心配していた。だが、何のことはない、ナース達の白衣にたまった静電気が原因だった。夜の検温で、カーテンの陰で薄暗くなったベッドの上で血圧を測ってもらった時に、伸ばしたぼくの腕の指先にキキの白衣の胸元が触れたその瞬間、指先から紫電が走ったのが見えた。
人はとっさの場合に、こんな衝撃的な場面であらぬことを口走るものなのかもしれない。
「胸が・・・・・・腕に触って・・・・・・」
ぼくが何を言おうとしているのか理解できないキキは、ぼくの視線の先にある自分の胸の辺りを目で追い、
「大丈夫よ。胸に触っていないし・・・・・・」
まるでボケ老人にでも言い聞かすように答えた。キキよ。「触っていないし・・・・・・」で会話を終わるなよ。続きがあると思ってしまうだろう。そんな会話はどうでもよく、どうやら、ぼくは血圧を測ってもらうたびにナースから電撃を受けていたようだった。彼女達が発する100万ボルトの電撃を、生で見られたのは怪我の功名というべきなのだろうか。
キキよ。うまく制御して電撃を発せられるようになれば、ぼくのような言うことを聞かない患者を懲らしめたりと、いろいろ便利だと思うのだがどうなんだ?

笑顔がこぼれて
前にも書いたが、入院患者のうち8割を占めるのが腰痛を訴える患者達だ。彼らは手術を受けるのだが、入院期間は10日から14日と比較的、短期間だ。だから、顔見知りになって挨拶を交わすようになったと思ったらすぐに退院となってしまい、親しく話をする機会があまりない。
それでも、ぼくの入院と同じ時期だった腰痛の年配の男性は、食堂で一緒に食事をするうちに親しくなった一人だった。
この病院の食事は、給食センターから人数分の食事を満載した手押しワゴンが到着すると、ナースセンターから
「食事の用意ができました。歩ける患者さんは食堂へ。病室で食べられる患者さんはテーブルを片付けてください」
とのアナウンスが入る。
手術するまでは、足首に錘をぶら下げてベッドに縛り付けられて身動きできなかったぼくは、ベッドで食事をするしかなかった。だが、手術が終わって縛り付けられていたベッドから解放されるや、ぼくは食事は食堂に出向いて備え付けのテレビを見ながら食べていた。入院患者で食堂に来て食事をするのは、いつも3~4名程度で少数派だ。ほとんどの入院患者はベッドに食事を運んでもらって食べていた。彼は痛む腰をさすりながらいつも食堂へやって来ていた。
彼と一緒に食堂で食事をするうちに、お互いにいろんな話をするようになった。
彼は会社をすでに定年退職していたのだが、以前はガラス製造の会社に勤めていたらしい。ガラスの製造工程や、船積みの仕方などいろいろなことを彼は教えてくれた。聞けば家はぼくの家と同じ地区でさほど遠くはない。子供は2人。孫もいるらしい。
彼の腰椎の手術の日に、たまたま食堂で本を読んでいたら、手術に立ち会った彼の家族が食堂へやってきた。彼の奥さんがとても心配そうにしていたので、「大丈夫ですよ」なんて適当に元気づけてあげたのだが、それ以来、奥さんは彼を見舞うたびにぼくのベッドにも挨拶に来てくれていた。
特注のコルセットができるまで動けなかった彼だが、手術後、2日ぐらいで歩行器を使って歩けるようになり、また食堂で顔をあわせることができるようになった。腰をひねるのは禁じられていたものの、そのうちに、コルセットを巻いてスイスイ歩けるようになり、手術後1週間で退院。家族が付き添う中、病室で挨拶をして退院していったが、一家には笑顔がこぼれていた。彼の退院していく様子を見ていて、ぼくも幸せ一杯の気持ちを覚えていた。やはり、人は健康が一番なのだ。

ところで、腰痛。古代人の遺骨などを見ても、椎間板はかなりの割合で変性しているらしい。人類はその昔からずっと腰痛に悩まされていたようだ。ただ、人間は二足歩行を始めたことで腰痛持ちになったという説には根拠はない。椎間板の変性やヘルニアは、20歳を過ぎれば誰にでも見られるのだが、すべての人が腰痛を訴えているわけではない。現代人の病気としての腰痛や肩こりは、ひょっとしたらストレス社会での心の問題が大きくかかわっているような気がするのだがどうなのだろう。

老人とその娘
食堂で食事をするその一人に、車椅子に乗ったその老人がいた。娘が食事のたびに老人を介助していた。老人は軽い認知症のようだった。昨年の末に、自宅でフラフラ起き出して転んでしまい尾てい骨を骨折したらしい。車椅子が手放せない状態だった。
老人は夜中に娘を呼んで大声で叫んでみたりと騒がしいので、同室の入院患者たちや、そばの部屋の女性入院患者たちから好かれてはいなかった。そんなこともあって、老人の娘は毎日、朝早くから面会時間の終わる夜8時まで、途中食事に家に戻るのだが病院に何度も足を運び老人の世話をしていた。

ある日の午後、病棟の廊下の突き当たりにおいてあるベンチに腰掛けて話し相手を探していた時に、その老人と娘がリハビリのための自主トレにやってきた。その娘といろいろ話をしたのだが、老人はその昔、漁師だったらしい。海苔の養殖で生計を立てていた。現在、彼らが住んでいる駅前の一等地は、老人が現役のころは海辺だったのだそうだ。埋め立てで駅前の商業地が出来上がり、あっという間に大型店舗が立ち並んだとのこと。
老人は漁師だったこともあって、言葉が少々乱暴だ。娘の食事の介助に対しても、やれ水だとか、メシだとか軽い認知症であるにもかかわらず、不明瞭ながらも乱暴な言葉で叱り飛ばしている。
娘も老人から頻繁に怒鳴られるのが嫌で、時々、老人に対してやり返すのだが、この口論がどうやら他の入院患者たちの彼女に対する悪評につながっているようだった。だが、悪口を言う入院患者たちは、わがままな老人に対する彼女の献身的な介助を見てはいない。
食堂で彼ら親子の様子を見るにつけ、ぼくは彼女の老人に対する献身に感心していた。確かに、たまに老人に対して大声でやり返すことがあるものの、老人のわがままから発せられる言葉がその原因であり、同情を感じざるを得なかった。
娘さんにふと、
「(毎日の介護が)大変ですね。たまには温泉で1日のんびりすれば、きっと発散できますよ」
なんて、大きなお世話だろうなと思いつつも口走ったら
彼女は顔を輝かせてぼくをそっと見つめ、しばらく思いをめぐらせていたようだったが、
「でも、これだから・・・・・・」
彼女は視線を老人に戻した。

夢でも良い。彼女がひと時でも現実から逃れて、自分自身を取り戻せる時間があればとぼくは思っていた。
老人介護。少子化が進んだ現在の日本では、どこの家庭でも老人介護の問題に頭を悩ませざるを得ない状況だ。
老人介護で苦労している人がたくさんいる。そしてその多くが、病院を転々とさせられたり、介護と病院探しに明け暮れている等の生々しい実態がある。高齢者介護に関する現行の制度は、医療と福祉の縦割りの制度となっており、サービスが自由に選択できないこと、サービス利用時の負担に不公平が生じていること、介護を理由とする長期入院(いわゆる社会的入院)等医療サービスが不適切に利用されていること等の問題がある。
こうした不安や問題の解消を図り、今後、急速に増加することが見込まれる介護費用を将来にわたって国民全体で公平に賄う仕組みを早急に確立する必要があろう。
高齢化社会は、待ったなしの重要な課題としてわが国に重くのしかかっている。施設の拡充のみならず、安い外国労働力を充当するなどの早急な対策が講じられるべきだ。

楢山節考
回復に伴い亜急性病棟へ移った時に、ぼくの向かいのベッドにその老人はやってきた。年齢は90歳。老人は脳外科病棟から移って来た患者だった。向かい側のベッドへ移って来たその日は、老人の次女が老人に付き添っていた。
ぼくはベッドで本を読んでいたのだが、本に落としている視線を上げるとベッドに横たわった老人と、ベッドの側のイスに腰掛けた歳の頃40歳前後の次女が目に入る。
彼女は困っていた。
「困った。困った・・・・・・」とため息とともに、なんども言葉を繰り返していた。
と言うのも、認知症気味の老人が、昔の記憶と限りなく混濁した意識の中で、娘に話しかけるからだった。どうやら、次女の彼女が20年も前にお嫁に行った頃からの記憶が飛んでいるらしい。しばし、彼女の知らないような昔のことをしゃべり、彼女はどう返事してよいものやら困っているのだった。
「困った。困った・・・・・・」
彼女は混濁した記憶の中を彷徨い、ともすれば、妄想に捕らわれ勝ちな父親の言葉に、認知症から早く回復してくれることを願う一方で、本来の父親とはまるで別人になってしまった父親にどう対応していいのか茫然自失の状態だったのだろう。
しばらく彼女と老人の会話が聞こえてきて、「おやっ?」と思ったのは、彼女がなにかにつけてナースを呼ぶことと、老人が家に帰りたがるのは彼女自身が老人の側にいるからと考えていることだった。
紙おむつを当てた老人が尿意を彼女に訴えても、彼女はナースを呼ぶだけで自分では何もしようとはしなかった。まして、後から老人の長女もやってきたのだが、2人の姉妹は、やってきたナースに老人の紙おむつの交換を任せたまま、自分達は廊下の外に出てそれが終わるまで待っていた。
たしかに、この病院では完全看護を謳っているから、「プロの看護婦に任せて、家族は手を出さない」との考えなのかもしれない。しかし、いくら意識が混濁した老人であれ、身内と他人の区別はつく。自分のオムツを交換してもらうのなら、他人である若い看護婦と我が子ではどちらが頼みやすいのだろうか。老人は病院に捨てられていた。彼女たちは自分達の手に負えないからと、若い看護婦の仕事がそれだからと病院に老人の世話を押し付けて、それ以来、ほとんど老人を見舞うことはなかった。
老人の世話に慣れていないのは仕方がない。しかし、自分の幼少の頃、さんざんオムツを交換してくれた親に対し、なぜ、オムツ交換ができないのだろうか。
他人の家庭のことをとやかく言うつもりはないが、老人は明らかに寂しがっていた。ぼくが彼のベッドを通り過ぎる際に話しかけてあげると喜んで、ただし、一本しか歯のない老人の言うことは2割ぐらいしか理解できなかったのだが、会話するのがうれしいようだった。
21時の消灯の際には老人はいつも家へ帰りたがり、不自由な体で懸命にベッドの柵を取り外そうとするのだが、声をかけてあげるうちにおとなしく寝入るのが常だった。
ナース達はさすがだった。パジャマ姿のぼくなんかよりも、白衣の彼女たちの方が老人は安心感を覚えるのだろう。彼女たちが優しく声をかけると、老人の心は落ち着くようだった。病院に捨てられた老人の寂しさを、ナース達が代わるがわる慰めていた。
老人のオムツ交換を繰り返しながら、深夜に家に帰りたいと騒ぐ老人を慰めながら・・・・・・。
いつしか、日本の病院ではこんな光景が随所で見られるようになった。姥捨て山。これが今日の病院の抱える一面だ。

昔は病院に入院すると、付添婦や家政婦が付き添ったものだ。ところが、医療法が改正されて病院は完全看護を建前とすることになったため、医療機関の看護師以外の者が看護することが禁止されることになった。だが、患者が幼児や、精神に障害がある人の場合など46時中看護を必要とする場合には、ナースの手が回らないので家族や付添婦の付き添いが認められている。一方、仕事のきついナースの数は全国的に不足がちだ。だから、一般の病院では、認知症、あるいは、痴呆の患者が入院すると、この例外規定によって病院側から付き添いが求められることもある。
ところが、介護保険も医療保険も付き添い看護は対象になっていない。看護をナースに押し付けるのか、あるいは、その労力を家族が100%負担するのか、これも大きな問題と言わざるを得ない。

看護師たち
ナース達は日3度、勤務班が交代する。日勤と夜勤、休日を組み合わせて、だいたい2日おきにシフトするサイクルのようだ。廊下を挟んで東側と西側の病室でナースのチームが異なり、急性患者がいる東側では経験充分なナース達と若手の組み合わせが、亜急性患者が多くいる西側の病室は、冷静・沈着な中堅どころと若いナース達が担当している。また、ナースステーションに近い病室ほど、看護に手のかかる患者達が入室している。
男性の入院患者は、そのほとんどが”入院先の白衣の天使達にあこがれる”と言われても、少なくともぼくは否定はしない。ぼくは白衣の天使が、うら若き乙女だろうが、250ccの中型バイクを乗り回すバイク野郎だろうが、ヒマさえあれば声をかけまくっていた。
ナース達は本当に良き話し相手になってくれた。

そのバイク野郎のナース。女性入院患者にとって、若い男性ナースは人気のようである。彼が病室の担当になれば、その病室のあちこちのベッドの女性患者から話しかけられ、なかなか、女性の病室から脱出することができない。だから、女性のナースの場合よりも、相応に女性患者の心のケアに役立っているようだ。ただし、下の世話に関しては話は別で、この時ばかりは同性のナースの方が喜ばれるようである。
これは、男性の入院患者の場合も同じ。尿瓶の交換などをお願いする時などは、若いキャピキャピの女性ナースが来るとついつい言いそびれてしまうのだが、男性ナースの彼が来るとこの時とばかり気楽にお願いすることができる。

さて、前にも書いたが、手術の翌日に排尿のためナニの先に突っ込んだチューブを引き抜いてくれたのがM嬢。ショートカットのさらさらの髪の毛が似合う女性なのだが、チューブを引き抜く際に思わず痛いとうめいたぼくに
「痛いと言ったでしょう」
と一言で一蹴したのが彼女だ。
それ以来、ぼくは彼女に対して、一方的に絶大の信頼を寄せている。どういうめぐり合わせか、手術後の始めての入浴も彼女が面倒をみてくれた。入浴の際は、ひょっとして一緒に入るのかなとドキドキしていたのだが、全裸になった片足立ちのぼくをシャワーの前に連れて行ってくれただけ。
「何かあったらナースコールを押してね」
と言う言葉を残し、彼女はシャワー室から出て行った。

藤原紀香
一番印象に残るナースは、なんと言っても手術を終えて手術室から出てきたぼくを、手をふって笑顔で出迎えてくれたナースだ。彼女は藤原紀華とは名前が一字違いというゴージャスな名前なのだが、愛くるしいまなざしに加えて小倉優子そっくりの声で話しかけてくる。そんな彼女に手をふって出迎えられたぼくは、もう死んじゃってもいいかもと思ってしまったほどだった。(手術室に入る前に、ぼくの看護計画を作ってくれた病院でNo.1の美人ナースに手を振ってもらったときも、死んでも良いと思ったのだが・・・・・・)
彼女は学生時代はソフトボールをやっていてセカンドを守っていたらしい。右投げ左打ちとぼくと同じスタイルだったから、いろいろ彼女とは話が合った。小柄なのだが、全身にガッツがあふれていて、入院患者のだれからも可愛がられていた。

ナース達の話し方には2種類ある。
「・・・・・・してくださいね」という口調で話すのが比較的若いナース達だった。その若手の中で、藤原紀華が特にその口調が目立っていた。なにしろ、小倉優子のような声で「がんばってくださいね」なんて言われた日には、折れた足首でも全力疾走ができてしまいそうな気になる。一方、ベテランのナース達にはそれほど特徴のあるしゃべり方はない。つまり、人それぞれ色々な話し方をする。どことなく懐かしい気がする地方の訛りの響きがあったり、ほぼ、タメグチのナースがいたりと様々だ。

さて、藤原紀華。ぼくよりも圧倒的に口が達者だ。一言彼女に告げると、2倍になって返ってくる。これまでのぼくの人生で、うら若き女性とこんなに長く話をしたのは生まれて初めてのことかもしれない。もっとも、彼女はどの入院患者であれ、同じようにさわやかな声をかけてくれるのだが・・・・・・。こっちの心までウキウキしてしまうようなそんな話し方。
ナース達は毎朝の検温の時に、病室の入り口に近いベッドの患者から血圧と体温を計測していく。病棟の端っこの病室でしかも窓際のベッドだったぼくは、いつもこの病棟で一番最後の検温だった。彼女が当番の時は、小倉優子そっくりの声がだんだん自分のベッドに近付いてくるのが待ち遠しかった。ぼくのところへ来るまでに他の患者達との会話が聞こえてきて、ほとんどの話題は語りつくされた後だったのだが、それでもぼくのくだらないジョークにケラケラ笑っていた。
ぼくは足の回復に伴って、急性患者用の病室から廊下を挟んだ亜急性患者用の病室へ移されたのだが、そっちの病室は彼女のナースチームの担当では無かったのがショックだった。それでも、彼女は担当からはずれてからも気さくにぼくに声をかけてくれたし、冗談を言うと身をよじって大笑いしてくれた。彼女の愛くるしいまなざしとともに、彼女がかけてくれた優しい言葉の数々が今も心に強く残っている。

「また来ますね♪」
いつもそう言って、彼女は用事を終えると去っていく。だが、もちろんのこと、彼女が検温などの用事があるとき以外は、ぼくの所へ来たためしはない。小さな体にガッツをみなぎらせ、夜勤明けでさえ病棟を忙しく走り回る彼女。彼女の献身的な姿には本当に頭が下がる。聞くとひどい低血圧で朝がなかなか起きられず、目覚まし時計を9つも用意して寝てるという。どうか体を壊さないで、ずうーっとずうーっと元気でいてほしい。

強制退院
マナーモードにした携帯電話が振動を伝えたのは午前3時のことだった。午前中のリハビリのための筋力トレーニングのおかげで、ぼくは21時の消灯から短時間で眠りにつけるようになっていた。その代わり、夜中に目が覚めてしまう。一度目が覚めると、それっきりもう眠れなくなってしまう。だから朝5時には起き出してフリースの上着を羽織ると、ポケットに小さなインスタントコーヒーのビンと、ビスケットの包み、それから文庫本を突っ込み、ステンレス製の保温マグカップを片手に給湯設備のある食堂まで松葉杖で出かけたものだった。
携帯の振動音。それは隣のベッドのバイク乗りの若者の携帯だった。彼はすぐに反応して飛び起き、松葉杖で廊下に出て携帯に応対。電話は彼の奥さんからで、1歳半の子供が食べたものを夜中に吐いてしまったらしい。それを見てパニックになった奥さんが病室で寝ている彼の携帯に「どうしよう死んじゃう・・・・・・」と電話をしてきたようだ。
彼はすぐさま当直のナースに相談。幼稚園児の子供がいるというナースから子供が食べ物を吐くのはよくあることで心配要らないし、救急車は必要ないとのアドバイスを受けて奥さんに連絡。翌日、奥さんが子供を病院へ連れて行くとのことで一件落着。彼は安心してベッドに戻り再び眠りについた。だが、それはまだ、事件のはじまりだったのだ。

翌朝、朝から子供を病院に連れて行ったはずの彼の奥さんから連絡がなかなか来なくて、彼と同じ病室のぼくらはやきもきしながらその連絡を待っていた。11時過ぎに彼の携帯の着信がなり、子供は単なる胃腸炎だったとの連絡が入る。子供は何事もなかったようにケロっとしているらしい。
昼前に奥さんと子供はいつものようにやってきて、子供はベッドではしゃいでいた。一方、今度は、ダンナの方が寒気を訴える。苦しげな声がベッドを仕切ったカーテン越しに聞こえてくる。
「困った」
彼はうなっていた。奥さんは彼を心配してあれこれ世話を焼こうとし、子供は寝ている彼のベッドの上で遊んでいる。
「心配だからついている」と言い張る彼女に
「ここは完全看護だから、看護婦さんに何でもしてもらえる」と彼が答える。
どうやら彼女は、ダンナが気が弱く、どんなに寒気を覚えてもナースに毛布の追加も要求できないと思っているらしい。
実際には、彼女がいなければ、彼はナース達をいつもからかって遊んでいるのだが・・・・・・。
とうとう、高熱が出始め、つらくなって彼がうめき出してから、彼の奥さんは納得して帰っていった。彼は彼女の後姿を見届けて、すかさずナースコール。熱を測ると38℃。しばらくして彼は、トイレで何度か吐いたようだ。その上、下痢が朝から止まらない。
医師のモンキッキ氏がやってきて、彼を診察。そして点滴開始。どうやら、ノロウィルスの感染を心配している。ナース達があわてて、病室とトイレの消毒を始める。結局、便を調べた結果、ノロウィルスは検出されなかった。
しかし、翌朝。今度は奥さんが自宅で同じ症状に。彼は青い顔を引きつらせて、自宅へ子供の世話をしに自宅へ帰ることを決意。

その翌週、彼はナースセンターへやってきた。子供も奥さんも平常に戻ったので、入院生活に戻ることにしたらしい。ところが、今度はナース長から待ったがかかった。彼はそれまでにあまりに外泊が多すぎた。
今回の騒ぎの中、病棟内に腸炎の症状を訴える患者が2人ほど出たらしい。その原因がまだわかっていないものの、病院側としては外来者に対して慎重にならざるを得ないのだろう。というのも、この病棟には抵抗力の衰えた老人がたくさん入院している。彼らにとって、ノロウィルスやインフルエンザが致命的な病原菌になり得るのだから。バイク乗りの若者の入院継続の望みは断たれて、彼は退院せざるを得なくなった。

ある日の会話
怪我の回復に伴ってナース達の介添えが不要になってくると、ほとんどのことは自分でやらされるようになる。これも、退院にむけた自立の準備らしい。ぼくの右足に巻かれた包帯を見てあるナースがつぶやいた。

「包帯巻くの上手ですね」
「だろ!」
「どうやって巻いたんです?」
「えーと。M嬢にお願いして・・・・・・」
「なんだ!」
彼女はぼくが自分で足首に包帯を巻いていると思ってたらしい。ところが、体の硬いぼくは自分で包帯を足に巻くのはつらいのだ。なんどか挑戦した結果、背中はつるし、股関節や腰がギシギシ言う上に全身が筋肉痛になり、おまけに背骨が「ボキッ」と骨折しそうになり、とってもじゃないができない。だから、こっそりM嬢にお願いして包帯を巻いてもらっていたのだった。

また、ある日のこと。
手術後はしばらく風呂には入れない。しかし、頭だけはシャンプーハットを着用してナース達に洗ってもらえる。ナースステーションの前で、あまり忙しくなさそうなナースを探していると声をかけられた。

「どうしました?」
「頭洗いたいんすけど・・・・・・」
「自分でできる?」
「できます」
「(足の)関節は大丈夫?」
「うん、ほら(手の関節を動かす)」

「・・・・・・(手の関節は動いて)それ、当たり前でしょ」
「ああ、足の関節ね。・・・・・・大丈夫」

後日、M嬢にこのナースとのやり取りを報告すると大笑い。病院にいると外の世界のニュースに疎くなる。そのかわり、日常のほんの些細なことでぼくらは笑い転げていた。

没収
最年少の美人ナースとベッドで話をしていたときだった。もちろん、ぼくがベッドで彼女に手術前のいろいろなケアを受けていた時で、ふたりともベッドの上にいたわけではない。その時、ぼくのベッドから、腰痛で長期入院中の男性がパジャマの上に上着を着込むのが目に止まった。ぼくもタバコを吸っていた時期があって、体内のニコチンが切れた時の苦しさは知っているつもりだ。ニコチン中毒者、タバコを止められない人たちは、病院内全面禁煙を受けて、しっかり上着を着込んで病棟の屋上へこっそり吸いに行ったり、病院の玄関の外に置いてある灰皿のところで吸っていたりしていた。
だが、タバコを吸わないナース達はそのにおいに敏感だ。どんなに衣服に消臭剤を振りまいてこようが、タバコを吸ってきたことを敏感に気がついて患者を叱る。いつも、こうしてニコチン中毒の入院患者とナース達のバトルが始まる。

日大整形・松崎他によればウサギにニコチンを8週間与えた結果、椎間板細胞のプロテオグリカン合成能はニコチンを与えなかったウサギのの1/3に、コラーゲン合成能は1/2に、椎間板への栄養経路の毛細血管数も約半分になったと報告している(脊椎脊髄ジャーナルVol.13 No.6 2000年)。喫煙は、椎間板変性を惹起させると言わざるをえない。
さらに、カロライナ医学センター整形外科のKwiatkowski TC, Hanley EN Jr, Ramp WKらによれば、喫煙は骨代謝と骨折の治癒を遅らせた上に、術後感染のリスクを高め、骨癒合不全率を高めると報告している(Am J Orthop 25(9):590-7,1996)。
喫煙は血液循環に重大な影響を与え、心拍数・末梢血管抵抗・血圧・心拍出量・冠状動脈血流を増やす。また全身の微小循環血流を減らす。その結果、術後血管閉塞の危険が高く創傷治癒が損なわれる。喫煙は百害あって一利無しなのだ。

「没収しますよ」
最年少の美人ナースは優しい言葉遣いながら、その目は真剣だった。上着のポケットに入っていたタバコをひそかにどこかに移し変えたその腰痛患者は、タバコを吸いに行くつもりではないと懸命に主張する。
2人のやり取りを見ていて、どっちに加勢したものかとぼくは思案していたのだが、最終的に彼女の側についた。「禁煙するぐらいなら死んだ方がマシ」というのが喫煙者の言い分なのだが、一生懸命に健康回復を願っているナース達からしてみれば、入院中はがんばって全力で養生してほしいというのが彼女たちの切なる願いなのだ。そんなに吸いたければ退院してから吸えばよい。
たかがタバコと、彼らのやり取りをぼくはニヤニヤして聞いていたのだが、患者の健康を本当に心配している彼女の姿に心を動かされた。彼女たちの気持ちを考えると、やっぱり入院中は吸うべきじゃない。特に彼の場合は、普通、2週間で退院できるところを、回復が思わしくなく、2ヶ月以上かかっても退院できないでいるのだから。

けんかしてもいいんだけど・・・・・・(1)
入院中に高校生の男の子が右足骨折で入院してきた。年寄りばかりの入院患者の中で、彼の病室には何人もの若いクラスメート達が見舞いに来るから、彼は自然と目立つ存在だった。右足骨折は、学校で禁止されているバイクを乗り回しての事故でやったらしい。食堂で本を読んでいると、彼を見舞う男女高校生達がやってきて食堂はその若い連中であふれた。おまけに、彼らはイスをだらしなく引いて座るため、他の入院患者の車椅子での通行を妨害するのだが、彼の親も他の入院患者のことなどお構いなしだった。彼は病棟で朝などすれ違う時なども、挨拶を返してくれるようなことは決してなかった。
彼にとって見れば、こっそり乗っていたバイクで転び学校から目をつけられているうえ、入院した病院は老人ばかりで話し相手がいないことで、この世の不幸が一気に押し寄せてきたような想いを抱いているのだろう。だから、ほかの人に気を使っている余裕などなかったのかもしれない。

聞くつもりはなかったものの、食堂で一人で本を読んでいた時に携帯電話をかけに来た彼の会話から、バイクの後ろに乗っていた男の子も怪我をして同じ病院の他の病棟へ入院中らしいことなどがわかった。ここの整形外科の病棟は入院患者でベッドが埋まっており、同じ骨折でも脳外科などの病棟の空いているベッドへ入院させられことがあるのだ。
そのうち、僕が一人で食堂で本を読んでいたら、右手にギブスをはめて点滴台を引きずった友達をつれて彼は車イスに乗ってやってきた。バイクの事故で相棒は右腕を骨折したようだ。一歩間違えば生死の境を分けたであろう事故からなんとか生還できたにもかかわらず、2人は淡々と会話をしていた。
その右手にギブスした子は食堂に入るや、窓際のテーブルにならんだたくさんのマンガ本に目を止め、やや興奮ぎみの声で叫んだ。
<****がある!>
なんのマンガ本かよくわからなかったものの、恐らく、彼はその漫画の愛読者なのだろう。ここ整形外科の病棟にある食堂には、数十冊の漫画単行本が置いてある。そのほかにボランティアがやっている図書館があり、患者が読み終わった文庫本などが数百冊ストックされている上、入院患者は週に一度、1時間だけ図書館に自由に出入りして何冊でも本を借りて読むことができた。ただし、食堂においてある漫画単行本のセットは、ブックオフの値札が張ってある本もあったので、病院側で古本を購入したものかもしれない。

本の貸し出しは貸し出し簿などで管理することなく、患者側のモラルに従って行われている。食堂に備え付けられたマンガ本のシリーズが完璧に揃ったままなのは、若者向けのマンガ本が高齢の入院患者たちの興味を引かなかったからかもしれない。
さて、豊富に揃ったマンガ本をひと目見た彼は、友人への挨拶もそこそこにマンガ本に駆け寄るや
<かっぱらっていく!>と宣言。
僕が側でイスに腰掛けているにもかかわらず、彼は僕に背中を見せながらどうやら服の下へ何冊ものマンガ本を隠しているようだ。
なにも隠して持っていかなくてもと思う。どうやら、彼には持っていったマンガ本を返す意思はないらしい。古本屋で僅かな金額で買えるような価値のないマンガ本だ。読み終わったら捨てるつもりなのだろう。
<なぜ、かっぱらう?>僕にはこうした若者の行動が理解できなかった。ミーイズムと言ってしまえばそれで終わりなのだが・・・・・・。

けんかしてもいいんだけど・・・・・・(2
ミーイズムは1980年以降、心の豊かさを求める人々が物の豊かさを求める人々よりも多くなったことによる。消費市場の中核が、必需品から言わば「自己実現材」に変わってきたことを受けて、豊かな心や人間性を取り戻そうとするのではなく、自己実現のために心や人間性追い求めていく「自分主義」になってしまった。つまり、私権獲得を最優先課題とするがりがりの利己主義がはびこりだしたのだ。空白の10年間と言われる90年代以降の社会の閉塞化も、ミーイズム拡大のもう一つの背景だろう。生活水準の停滞による自己実現志向の膠着化。生活水準を下げられないからの自己防衛だ。かくして社会よりも自分を大切にし、既得権としての豊かさを守るための要求を声高に叫ぶという攻撃的なミーイズムが巷であふれている。

<なぜ、他の患者のことを考えない?>
<お前も社会の一員だろう?>
悲しかったのは、彼のこちらに背中を向けて本を服の下に隠すと言う行動が、僕の視線を避けたものではなく、看護婦など病院のスタッフを気にするものだったことだ。食堂に一人で本を読んでいる患者としての僕は、病院側の人間じゃないから本を盗むのを見つけられても何にも言われることは無いと彼は考えたに違いない。事実、彼は僕を全く気にする様子はなかった。また、右足を骨折した彼の友人もこちらを気にする気配はない。

僕はその現場にいてどうしようか迷った。へたに声をかけたらとんでもないことになるかもしれない。でも、相手は2人だが一人は車椅子、もう一人は歩けるものの点滴台を引きずっている。いざ喧嘩となれば、松葉杖を振り回せばなんとかなるかもしれない。一瞬、口うるさい看護婦Kの顔が脳裏に浮かんだ。これで怪我でもした日には何を言われるかわからない。
放っておこう。一旦は見て見ぬフリをしようと決めたのだが、心臓がバクバクしていた。「社会のルールを若者に教えるのは社会人の務め」こんな陳腐な言葉が頭をよぎる。

そそくさと、お腹に隠した本を抱えて食堂から出て行こうとする彼に
「読み終わったら、本を返せよ」
「・・・・・・」
思い切って声をかけたのだが、返事はない。シカトを決め込まれた。瞬間に、頭に血が上ったのを感じた。
「おい!持ってってもいいけど、返せよな」
僕の声の調子に彼らは驚いたような顔で振り向いた。
「堂々と本を持っていけ。片手じゃページめくるの大変かもしれないけど、読んだら必ず本を返しときなよ」
僕らはテーブルを挟んで視線が一瞬、交差した。本を盗んだ方の若者はすぐにうつむき、そして小声で答えた。
「はい」
<はい>と答えた彼の返事が、本を必ず返すことに繋がるとは思えなかったのだが、彼を信じるほかない。骨折と言う同じようなハンディキャップを背負った人間から注意をされた理由が彼には理解できたと信じてやまなかった。

なぜあの時、若者に注意をしたのか今ではよくわからない。たぶん、お互いに健常者で、彼の万引きを書店で見つけたのなら僕は見て見ぬフリをしていただろう。トラブルに巻き込まれるのを恐れるからだ。だが、骨折というにわかハンディキャップを背負い、他人の親切に頼らざるを得ない状況になって、少しは社会とのつながりに目覚めてきたせいかもしれない。怪我して入院して、初めて世の中のことが少しだけわかったような気がした。

多謝多謝多謝
入院生活の長い患者さんたち、および、仲の良くなった患者さんたちにそれとなく聞いてみたのだが、退院の際に担当の医者にお礼としてお金を包んだり、ナース達にお礼の品をというのは病院側で禁止されていて、いかなるお礼もこの病院では受け取ってもらえないらしい。
それゆえ、退院の際に世話になったナース達への挨拶は、非常に心がこもった言葉にあふれる。自宅での生活に不安を抱いているにもかかわらず半ば強制的に退院させられる患者達も、ナース達に対する惜別の情は堪えないところで、退院の喜びよりも哀愁の情に包まれてやるせない想いになる。
ぼくの場合も、足首を固定しているボルトを抜いて、体重をかけて歩けるようになってからの退院を希望していたものの、手術した傷がふさがり、挿入したプレートやボルトが安定して医療的にやることがなくなったら、さっそく病院を追い出されることになった。手術から3週目。入院から4週目の退院だ。腰痛手術を希望する患者が多く、すでに3ヶ月先まで予約で一杯の状態で、病院側としては医療処置を必要としない亜急性患者については、すぐにでも退院してもらいたがっているようである。

退院の勧告があって、その4日後の日曜日に退院。この後、4週間自宅で養療した後に再入院して、足首のボルトを抜鋲。
ぼくは退院の日取りが決まるや、廊下で世話になったナース達にすれ違うたびに感謝の意を伝えた。彼、彼女たちには本当に世話になった。何よりもまして、手術や足の回復に不安なぼくの心をいつも明るい笑顔で励ましてくれた。
入院当初、人とのコミュニケーションが苦手になってしまっていたぼくを暖かく見守って、いびつなぼくの心を癒してくれた。
感謝の気持ちで一杯だ。言葉では表せないぐらい・・・・・・。この先、足首のボルトを抜くために再入院するのだが、この入院は1週間程度のものだろう。また、彼らナース達に会えるのが今から楽しみだ。

3交代シフトのナース達。ぜひ、挨拶をしておきたいナースと顔をあわせるチャンスが、なかなか巡ってこないのでやきもきする。彼女たちのローテーションは、休みが不定期に入ったりして出勤が予測ができないのだ。
「お世話になりました。ありがとう」
感謝の言葉を伝えた時のナースたちの顔の輝きを、ぼくは一生忘れない。

桜の咲く頃
足を骨折した患者たち。交通事故、自宅での転倒、職場での落下物による、そして、パラグライダーでの着地失敗。原因はそれぞれなのだが、入院した時期が互いに近接していて退院時期もほとんど一緒になりそうなことから、ぼくら4人は、毎日、かなり親しく会話していた。お互いに診察結果を報告し合い、入院による憂さ晴らしがてらお互いに励まし合っていたのだった。
ぼくは、平均年齢の高いこの病棟の入院患者の中では、まだまだ若輩者で通っていたのだが、彼ら彼女らは年上であることを全く気にせずに、また、性別を超えて好きなことを言い合える仲間たちだった。おなじように、筋金入りの体、スネに傷を持つ身だから・・・・・・。
そんなことから、この骨折組の一人の女性から、退院してからも会ってみんなで話をしたいねという提案があり、幹事役を一番年下のぼくが引き受けることになった。
”お花見の会”として、事務局役のぼくは会員の募集案内を書いた。
「入院中はいろいろお世話になりました。これも何かの縁ですね。桜の咲くころ、皆さんでお互いの全快祝いをやりましょう」

”君と作った思い出 花びらとともに風で舞い上がる 恋しくて目を閉じれば あの頃のあなたがいる”
これはアンジェラ・アキが歌った”サクラ色”の歌詞の一部。彼女が昔大恋愛をして別れた彼と一緒に歩いたワシントンDCのさくら並木のことを歌ったものだ。

今年は関東でも雪が積もった。大寒には未明に雪がちらつき、箱根は銀世界だったようだ。雪が降ると暖房の効いた病室でもやはりしんしんと寒い。日本海に居座った寒気が雪雲を成長させ里雪となる。関東での積雪は、今年はこれで2度目だ。
”雪化粧 まとえば 想いはぐれて 足跡も消していく 音無きいたずら”・・・・・・去年、スキー仲間から教えてもらった中島美嘉の”桜色舞うころ”のフレーズが耳にこだまする。
身を切るような寒さは日々緩んでいき、心地よい温かい風が頬を撫でる日が必ず来る。
サクラの舞う頃、きっとみんなが元気よく、普通に歩いて出会えるそんな日が来る。ぼくらはそんな日を夢見て住所を交換し合った。

片足の折れた久米仙人ーバリに行く(ぞ)
退院の日が決まった時に真っ先に頭に浮かんだのは、また一人ぼっちの生活に戻ることだった。すっかり気弱になってしまった今は、そんなに長い間、孤独に耐えられそうもない。この退院後の一人暮らしの長さを考えた時、ぼくは反射的に、いつも有給休暇をなんとか取って海外のダイビングツアーへ行こうと頭を悩ませていたことを思い出していた。正月休みと5月の連休は、田舎で一人暮らしをしている母親の様子を見に帰る。だから、それ以外の時期にまとめて休めそうなチャンスがあれば海外で過ごそうといつも狙っているのだが、仕事が忙しくて全くかなわない夢だった。
再入院するまでの4週間。再入院の前の週に検査が必要なのだが、それでも3週間の空白の期間がある。海外へ旅するには充分な時間だ。会社へは、どこかの温泉で湯治していたことにすればいい。

短絡的に、南の島でビーチの木陰に座り、ビールを飲みながら夕日を眺めている自分を思い浮かべ、どこか海外へ行くしかないと決意した。ちょうど検温に来たナースに「南の島でリハビリするぞ」と決意のほどを伝えると、どこへ行くつもりなのかと聞かれた。
会社でいつも昼休みともなれば、インターネットで海外のダイビングツアーの情報を集めては、ため息をついていた。フィリピン、サイパン、ロタ、グアムあたりで、安いツアーを探せば6万円台からあるだろう。
「どこ?セブ島?バリ?」
フィリピンしか頭に無かったぼくは、彼女の「バリ」という言葉に強い印象を持った。バリってどこなんだろう。偏見かも知れないが、ネットではバリ島でのダイビングの話はあまり聞かない。良いダイビングポイントが少ないのかもしれない。
そしてその翌日、退院の前日のことだった。ぼくは外出許可を取り付けて病院を抜け出し、近くのJRの駅にタクシーで向かった。駅前にネットカフェがあればそこで情報収集をするのだが、残念ながら知っている店はない。駅ビルの中にある旅行代理店で、JTBのパンフレットをあれこれ物色。よさげなのは、村上龍の「悲しき熱帯」にあったオーストラリア、プーケット、グアム、近藤紘一の「サイゴンのいちばん長い日」、沢木耕太郎の「一号線を北上せよ」で書かれているベトナム カンボジア、浅田次郎の「オー・マイ・ガア!」のラスベガス。すべてはごく最近、読んだ本で印象に残っているところだ。それから、ナースのお勧めのバリ島。
駅前のスターバックに入り、それぞれのパンフレットをじっくりと吟味。ぼくはなぜか、神々の住むバリ島のパンフレットに心が強く引かれていた。バリ島は7日間のツアーで10万円ぐらいで行って来れそうだ。これなら、国内の温泉で湯治するのとあまり変わらない金額だろう。

その夜、病院で美人No.1のナースに
「バリ島ってどこにあるの?」
と聞く。彼女曰く、インドネシア諸島とのことだ。だったら、赤道に近いから、海でもプールでも泳げるに違いない。リハビリにはもってこいだ。
「いいなあ」
早くも行く気満々のぼくに、彼女はうらやましげにため息をついた。

翌日、いよいよ退院。週末なのでナースは藤原紀華と広末涼子似の2人しかいない。笑顔で見送る彼女達にお別れの挨拶。そしてぼくは、タクシーで自宅へ。自宅につくや、ネットでバリ島への格安チケットを探す。しかし、一番安いチケットでも6万円台。これじゃあ、格安ツアーの方がプール付きのホテルを確保できるため安上がりになる。いろいろ調べて、HISの一人旅プランに決定。
ということでHISにチケット購入のため連絡するも、3連休の真ん中で連絡がつかない。建国記念日の次の日、2月12日でなければ業務開始とならないようだ。連休が明けるまで待つしかない。こうして、ぼくのバリ行きが決まった。出発は2月17日(日)、5泊7日の旅程を選択。はたして、松葉杖で海外へぼくは脱出できるのだろうか。

                                     第一部 完

第一部 あとがき
バリ島から無事に戻った翌週、ぼくは外来で診察を受けた。怪我は順調に回復。バリに行って泳げたことをモンキッキー氏に報告すると、ぼくのカルテに日本語で「バリ島へ行く」「泳げた」と氏は書いていた。
モンキッキー氏からは退院前に、足首を固定しているチタン製のボルトが折れると、それを抜く時の手術が難しいものとなるため、右足に体重はかけないようと言われていた。だが、海外から無事に帰って来れて家でのんびりしていると、暖かい春の陽気に誘われてどうしても外に出たくなる。再入院の2日前には、ぼくはおっかなびっくりで、怪我した足に体重をかけて歩く練習をしていた。家の近くの川沿いの散歩コースを一時間。歩いても全く痛みは無く、ビッコをひいているものの、両足首に1kgのウェートを巻き付けても歩行には問題が無い。
3月3日(月)、桃の節句の日に再入院。懐かしいナース達や、まだ退院せずに残っていた入院患者らと、再会の喜びを分かち合う。病室に入るや、リハビリのために散歩がてら外出して近くのマクドナルドでコーヒーをとM嬢に願い出ると
「散歩のための外出はだめよ」
とあっさり却下。散歩のための外出ではなく、リハビリのための散歩なのにと思うのだが、あきらめて食堂でインスタントコーヒーを飲みながら持ってきた文庫本を開く。
ベッドへ帰ろうとして、文庫本やらマグカップやらの荷物で手がふさがっていたため、松葉杖を小脇に抱えて移動しているところをモンキッキー氏に目撃されて怒られる。
「体重をかけちゃダメですよ!」
ぼくがあまりにも普通に歩いているので、モンキッキー氏は今回の入院は日帰りでも可能と思ったらしい。手術が終わったら自宅へ帰るかと聞かれたのだが、会社に1週間再入院すると言って出てきた手前、すぐに帰ったらカッコウが悪いので予定通りの入院スケジュールにしてもらう。

3月4日(火)。藤原紀華が押してくれる車椅子で手術室へ。途中、ナースステーションに寄った時、あの憧れの美人No.1のマドンナが笑顔で手を振ってくれた。・・・・・・もう死んでもいい。(って、前回の手術の時も確かそう思った)。
手術は局所麻酔にて10分で終了。ボルトを抜く時に、骨にボルトをまわす振動が伝わって抜けていることを実感。手術中に、ぼくの左側に位置した手術をアシストする恰幅の良い医師が、手術台の上のぼくの左足にそのお腹を乗せていたため、左の足首が伸びきってしまって、足がつりそうになった。
「痛いところは無いですか?」
のモンキッキー氏の質問に
「すいません。左足がつって・・・・・・」
医師たちは多少あわてたようだった。

第一部 あとがき(その2)
再入院したその退院の日がやってきた。これで本当に入院生活とお別れ。その日の朝、いつものように朝5時にベッドを抜け出したぼくは、まだ寝静まっている病棟の廊下を松葉杖で忍び足で歩行し、ナースステーションの前を通過して食堂へ。ポケットからビスケットの包みとインスタントコーヒーのビン、マグカップ、そして文庫本を取り出すと本を読み出した。
小川洋子の「博士の愛した数式」。以前読んだ本だが、現実との接点があいまいで幻想的な登場人物たちが織り成す世界にもう一度浸りたくて再読。彼女の文体には心を揺さぶられる。ページの一文一文に鼻の奥がツーンとなる。
いい年をしたおっさんが恥ずかしいと思うのだが、涙が止まらない。
ベッドにいないぼくを探して、藤原紀華がぼくの検温のために食堂にやってくる。やばい。涙を見られてしまう。
できるだけ目を合わせないようにしていたのだが、彼女が怪訝そうな顔をする。だから、花粉症ということでごまかす。
「今年も花粉症がひどくて・・・・・・」
そして笑顔でお別れ。5日間の再入院は、前回の入院にも増して夢のような時間であったけれど、幕切れはあっけない。
”お元気で”の言葉ひとつで現実の世界に収監される。来週からまた、満員電車で出勤の生活がやってくる。

今年(2008年)1月から、にわかハンディキャッパーとして松葉杖をつきだした。右足首を脱臼骨折し、損傷部分にチタン製プレートで補強中。しばらくは期間限定ハンディキャッパーとなる。松葉杖をつきながら普通に出歩いているのだが、バリアフリーとかユニバーサルデザインというものの実態を、障害者の立場から見ることになった。
まず、混んだ電車に乗ると自分はどこに位置すべきか悩むことになる。優先席の前に立つのは、”その席を譲れ”といってるようで気になる。普通の座席でも同じであるが、気の弱いtetujinは遠慮して電車の入り口付近に立ってしまう。
足にハンディがあるから電車内の移動が困難なために入り口付近に立つのだが、健常者は歩行の遅いぼくをどかしてまで我先に電車から降りようとする。
松葉杖を突いて実際に外を歩いていたのは、2月10日に一時退院して3月3日に再入院するまでの2週間と、3月7日に退院してから外来で診察を受けるまでの4日間、合計、28日間である。この間に、松葉杖をついて飛行機でバリ島に行ったり、勝浦へ電車で海を見に行ったりしていた。
電車には合計10回近く乗ったのだが、席を譲られたのは1度もなかった。むしろ、回復が進んで松葉杖をお守りとして脇に抱えていた頃に、ぼくよりももっと障害がひどく、荷物を入れた歩行器と杖でどうにか電車に乗ってきた老人に、座っていた普通席を譲ったことがあった。
駅に設置されたエレベーターは、そこにたどり着く頃には、海外旅行のスーツケースなどを運搬する若い女性などが先に乗って行ってしまうため、エレベーターが戻ってくるまで、しばらく待つことが多かった。

ともあれ、いろいろな人の世話になってここまで回復できたことを、本当に感謝をしている。
骨が折れても、仮骨ができたら元に戻れると思っていた。怪我から約3ヶ月たった今でも、むくみの取れない右足。天気が変るとつま先が痺れてどうしようもない。生まれて初めて「手術を受ける」ということ、「入院する」ということ、「職を失うかもしれない」など様々なことを知ることができた。

それぞれの骨折にはそれぞれのドラマがあり、骨折からの回復がどのような筋書きを歩むのかは、かなり不確定な要因に左右される問題だ。
もし、骨折された方で、この文章を読んでくださる方がいらっしゃいましたら、ぜひ、喫煙は骨癒合を妨げるのでやめましょう。牛乳(カルシウム)や納豆(ビタミンK)、シイタケ(ビタミンD)などは骨癒合を促進します。どうか、がんばって・・・・・・。
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