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tetujin282828

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春風に誘われて鎌倉

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テーマ:登山・ハイキング - ジャンル:旅行


冬の函館へ
冬の函館へ

”東京の人は、どうも食ひ物をほしがりすぎる。私は自身古くさい人間のせゐか、武士は食はねど高楊枝などといふ、ちよつとやけくそにも似たあの馬鹿々々しい痩せ我慢の姿を滑稽に思ひながらも愛してゐるのである。何もことさらに楊枝まで使つてみせなくてもよささうに思はれるのだが、そこが男の意地である。”
(太宰治「津軽」より)

終戦からはや60年以上が過ぎ、戦後まもなくの食糧不足は、ひと昔もふた昔も昔のことだというのに、戦後生まれの人々はいまだに貪欲に食べ物を求め続けているのだろうか。インターネットにあふれる飲食の情報を目にするたびにそう思う。
もっとも、旅の指南書とも言える旅行ガイドブック自体が、その土地がどんな印象を与えたのか、どんな旅だったのか、そんな話をさておいて、どこの店がうまかったという話で全てがくくられている。東京には無い食べ物は無いと錯覚を与えるほど、種々雑多な飲食店が建ち並ぶ東京で、人々は食べ物がなかった大昔の記憶をにじませて、癒されることの無い飢餓感にいつも身を置きつづけているのだろうか。
観光地は観光地で、そうした客相手に、ぶったくりの商いをふっかけている。おそらくは上野のアメ横で買えばもっと安く手に入れられる食品が、観光地価格ということで何倍にも値がつりあがっている。どうだろう。1日の客の数を考えれば、シーズンによっては食品の鮮度は現地よりもアメ横の方が勝ってないとは限らない。

こんど函館へ出かけるに当つて、”心にきめた事が一つあつた。それは、食ひ物に淡泊なれ、といふ事であつた。私は別に聖者でもなし・・・”(太宰治「津軽」より)
松尾芭蕉翁にならって、生まれ故郷の津軽を旅した太宰治の文庫本を片手に携えて、ぼくは、冬の北海道へ旅立った。

函館 旅の失敗

夜がまだ、駅前の街角に染み付いていた。始発電車はまだというのに、寒空の下で一晩中遊びほうけていたであろうヤンキーたちが街灯の下をうろついていた。
ぼくは、何台かの自転車が放置されている駐輪場に自転車を入れ、ディパックを背負って駅までの道を歩き出した。夜明けが近い。吐く息が白い。闇を切り裂く街灯に照らされて、凍りついたようにしんと静まった駅前のジャスコの通りを歩いていると、線路をきしませる聞きなれた電車の発車する音が聞こえて来た。
ん?電車の音?始発に乗り遅れた??時間を確かめようにも、腕時計代わりの携帯は背中のディバックのポケットの中だ。

普段は、朝起きてから電車に乗るまでに1時間かかる。目覚ましをセットした起床時間では、始発電車に乗るためには、いつもの所要時間を5分短縮する必要があった。夜明け前の過酷なタイムトライアル。息を切らして走り込んだ駐輪場。だが、そんなぼくをあざ笑うかのように、あと駅まで50mのところで去った始発電車は、ぼくの立てた函館への緻密な旅行プランが、はやくも音を立てて崩れ去ったことを宣告していた。・・・なにやってんだか。。
そもそも、今回の函館旅行は、何気にインターネットの乗換え案内で、新幹線を利用すれば函館に昼過ぎに到着できることを知ったからだった。数十年ぶりに函館の夜景を見たい。それよりも、なにより雪景色を見たい。そして、北の酒場で地元の人とゆっくり話をしてみたい。
たぶん、正月に見たテレビで、萩本欽一氏の青森ストーブ列車の旅を放映してたのが心に残っていたのかもしれない。
あるいは、ブログの方たちが掲載する雪景色の写真に心を奪われたのだろうか。
旅の理由など、どうでもいい。が、しかし、最初の最初で、ぼくの旅は、はやくもつまづいちまった。

旅での失敗はこれまでに何度もしてきた。仕事でアメリカ行きの飛行機に乗り遅れたことさえある。ぼくは、すでに始発電車が出てしまったホームにたたずみ、こうなったら今回の旅は、津軽でも、十勝でも、電車の行き先まかせの気ままな旅行にしてやろうと心を切り替えた。そう、旅の失敗なんて、いつものことだ。

函館 赤レンガ倉庫

始発電車に乗り遅れたぼくは、予定から30分遅れで東京駅に到着。駅の時刻表を見ると、次の八戸行きの「はやて」がちょうど駅に入線する時間だった。とりあえず、八戸へ。そして雪の中、青森へ。今日中に函館につけばいい。そんなことを考えて、「はやて」の立ち席に乗る。八戸まで4時間の旅だ。盛岡を過ぎれば、太平洋側を走っていた列車は、いくつものトンネルをくぐって津軽半島に向かう。いつもなら、たっぷりの雪景色があるはずの列車の窓の外は、あいかわらず、おだやかな春の日差しを反射する景色でしかなかった。青森駅には、ほんのちょっとの雪と、たっぷりの陽光があふれていた。このまま函館に行くか、青森で途中下車して観光するか。。
選択は簡単だった。雪の少ない青森を見てもつまらない。ぼくは、「はやて」に接続した特急白鳥に乗り換えて、寄り道せずに函館を目指すことにした。朝の3分の遅れは、結局、1時間遅れで函館に到着。

列車を降り、函館の地に降り立つ。底冷えするほど寒いだろうとは覚悟していたのだが、そんなことはない。道の片隅には、真っ黒に汚れた雪がとけ残っているものの、路面電車の走る大通りは埃が舞っていた。
駅の構内の書店で「るるぶ」を購入し、ディバッグの中に放り込む。どこへ行こうか、いきあたりばったりだが、そういう旅が一番好きだ。とりあえず、時間はずれでまばらな観光客の朝市を抜けてベイエリアを目指し、途中で地元の人たちがいくようなラーメン屋で遅い昼食をと。
道の標識にしたがってベイエリアの赤レンガ倉庫群を目指すも、地元密着のラーメン屋が見つからない。ラーメン屋どころか、マクドナルドも、デニーズもケンタッキーすらない。そのかわり、観光客相手の和食レストランとコンビニが目に付く。それと、若者向けのバーガーショップ。この地では、これ見よがしの和食レストラン以外は客が入らないのかもしれない。
結局、30分ほど歩き、ベイエリアを通り越して外人墓地まで出てしまった。「函館どっく前」から魚見坂を登り、昭和の面影を残す住宅が立ち並ぶ山の手の道を行き着くと、海を見下ろす小高い丘に、開港された函館に移り住んだ異国の人々が眠っていた。ここの墓地は、ペリー来航時の水兵2人を葬ったプロテスタント系が始まりとされ、ロシア系、中国系など宗派別に区画分けされていた。

ベイエリアに引き返し、人力車を横目で追い越しながら、海辺の散策路に設けられた新島襄の碑を通ってヨットハーバーへ。江戸後期、当時、22歳だった新島襄は世界を知るため、ここからアメリカへ国禁だった密航を決行した。10年後に無事帰国、彼は同志社大学を興した。彼の旅はどんなだったのだろう。国のため、命を賭した旅。今の失態ばかりの政治家に、こんな気概はあるのだろうか。
いいかげんお腹が空いてきたので、西波止場の近くにあったラーメン屋で遅い昼食。コンブの香りの効いたスープと、チャーシュー、麩、なると、メンマ、ほうれん草、ゆで玉子、軟白ネギ入りの函館塩ラーメン。
昼食を終え、そして、赤レンガ倉庫群を見物。さすがにここに来れば、函館観光の一角。観光客が目に付く。山の手にある十字街から海辺に至る金森倉庫辺りを中心に、再利用された和洋折衷の古い建物が散在していた。

函館 異国情緒の教会

路面電車の走る広い道路を横断し、再び、山の手に向かう。北海道であることを、強く主張しているのが広い路面だ。本州では2車線分の片側を車がゆっくりと走っていく。冬場の凍結が怖いせいだろうか。北海道のドライバーはマナーがいい。歩道の歩行者にも徐行をしてくれる。
異国情緒あふれる教会群があるのが山の手の元町。キリスト教徒が国禁だった文久元年(1861)、ハリストス正教会の司祭ニコライが、日本で初めてロシア正教を伝道した教会がハリストス正教会だ。十字架を掲げた高い教会の建物の前に群れていた、観光バスの団体をかき分けて教会を見物。このころから、天気は一転。前線が上空を通過しているのだろうか、気温が急に下がって、みぞれが降り出してきた。

ハリストス正教会のすぐ東隣りにある聖ヨハネ教会。明治7年(1874)、イギリスの宣教師デニングが北海道に伝道のため、この地に来たのが始まりらしい。大きな弧を組み合わせた屋根が特徴的な建物。そして、この建物の下手にあるのが、カトリック元町教会だ。ゴシック様式のローマカトリック教会で、祭壇はローマ法皇ベネディクト15世より贈られた日本でただ一つのもの。
なんといっても、函館元町のランドマークは、シンメトリー構造が美しいルネサンス風の木造建築の旧函館区公会堂だ。明治43年(1910)に建築。
柱頭飾りのある特徴的な様式で、2階にはベランダを配している。基坂の下から見上げると威風堂々としたこの建物が目に飛び込んでくる。

腕時計の代わりの携帯電話がディバッグのポケットの中なので、確かな時間はわからないが、夕暮れまでには、まだ少しだけ間がありそう。みぞれは次第に質感を増して大粒に変わりつつある。天気はこの先ひどくなるばかりだろう。
一度、ホテルへチェックインしてから、夜景を見に函館山へと考えていたのだが、このままロープウェイの発着場へ。

函館山

函館は、その昔、アイヌ語で湾の端を意味するウショロケシと呼ばれた漁村だった。1454年ごろ 河野政通がこの地に館を築き、この館が箱の形に似ているところから「箱館」と呼ばれるようになったらしい。市街地西端には、展望台のある御殿山をはじめとする13の山があり、それらを総称して函館山という。御殿山は、標高334m、周囲約9km。牛が寝そべるような外観から、臥牛山(がぎゅうざん)とも呼ばれている。

函館山から見下ろす函館の夜景は、「世界三大夜景」のひとつ。学生時代に、雲の切れ間から、かすかに見えたダイヤモンドの粉をこぼしたような市街地の夜景を垣間見たとき以来、もう一度来たくてもなかなかチャンスがなかった。空気が透き通るこの冬の時期に、再び来れたのだが、今夜もあいにく、みぞれまじりの空模様。函館山からのきらめく夜景は望めそうも無い。
こんな最悪の天候にもかかわらず、函館山に登ろうと何人もの観光客がロープウェイの出発待ちをしていた。中国から来た団体さんたちが行儀よく列にならんでいる。はるばる海を越え函館までやってきたのに、きれいな夜景を見れなくてかわいそうだ。
20分間隔で出発する20人乗りのロープウェイは、ふもとと山の上にある終点を5分で結ぶ。
この日は、上に行けば行くほど雲が濃くなり、終着は一面雲の中。それでも、山頂への上がり際に、暮れなずむ市街地に灯されだした街灯が、ぼんやりと幻想的に雲を透かして浮かび上がっているのが見えた。ロープウェイのガラス窓を通して、眼下に広がる景色を見ていた満員の観光客から思わず歓声が上がる。街灯で縁取りされた函館の街は、「巴」の美しいフォルムを見せて魅力的に拡がっていた。
旅の思い出。天候の悪さなど、ほんのわずかなこうした運の悪さも、旅の記憶として、いつまでも心に残り続けるものなのだろう。

函館 最後の止まり木

“汲めや美酒 うた姫に 乙女の知らぬ 意気地あり”
(与謝野鉄幹「人を恋うる歌」より)

港町函館。函館は本州に最も近いことから、明治時代から本州と北海道を結ぶ海上運輸が発達した。また、北洋漁業の基地でもあり、漁船団がひしめく漁港の町でもあったのだが、ロシア(当時はソ連)の200海里経済水域の設定以降は、そのにぎわいが消えてしまった。
追い討ちをかけるように、高度成長時代に賑わいを見せていた地場産業の要の造船とその関連産業も、オイルショックを境に一気に冷え込み、街は活気を失った。港町であった函館の人の流れが変わった。
繁華街は五稜郭周辺に移り、かつての盛り場の十字街地区は、かろうじて観光という資源を利用して再開発が進んでいるものの、函館駅から山の手に向かう大門地区には空き地やシャッターを閉めた店が目立つ。

多くの港町がそうであるように、どこかに飲み屋街があって、地元の漁師などが飲み歩いているはず。そう思ってみぞれの降る中、通りから通りへJR函館駅前を彷徨ったのだが、かろうじて軒を連ねる小さな飲み屋が数軒あるばかりだった。そのうちの一軒の店。明るいうちに見れば廃屋としか言いようのスナックだった。
中に入ると、60代半ばをとうに過ぎたママが店を開く支度をしていた。もちろん、客は誰もいない。店のコート掛けには、サンタクロースも恥ずかしくて逃げ出すような、真っ赤なウールのコートがかかっていた。

「16歳から住み込みでこの商売をやってきたよ」
父親が7歳の時に他界。母親が働きに出て、米を買うお金だけは、毎日、渡してくれたらしい。母と弟と三人で1日分、1升の麦入りのご飯は、彼女が16歳になるまでは、彼女が毎日炊いていた。時は流れて、彼女は結婚。昨年、46歳になる長男の1000万円に近い借金の肩代わりをして1年で完済したという店のママは、豪快にグラスの焼酎を飲みながら、そう言った。ひとさまに迷惑を掛けるのが嫌だと。
そのママが、外は冬の雨、今日は客が来ないだろうと言う。
「商いって、店を開けて見なけりゃわからないでしょ。だから、”飽きない”って言うんですよ」
こう、答えたぼくに、ほんとうにそうだねとうなづく。昨晩は、金曜日というのに、まったく客が来なかったとのこと。ここのところ、景気が悪くて、客足がさっぱりらしい。
「うちの店、若い子を5人も使っているのにね」
椅子が4つ並んだカウンターに、テーブルが3つあるだけの店。カウンターの奥の棚には、有線放送のケーブルを取っ払う際に落っことして、左側にひびが入ってしまったという、スターウォーズにでてくるジャバザハットのような超メタボの招き猫が飾られている。カウンターの上に、生ビールと焼酎のサーバーがあるだけ。あまりにも、殺風景な店だった。何で若い子が5人?
後でわかったことだが、その店は合法的なデリバリーヘルスもやっていた。つまり、置屋だった。その昔は、そうとうな荒稼ぎができたらしい。毎日の売上が、数十万という時代がかつてあったようだ。。

その店で、一人で飲みつづけていると、「あけみ」という子が、そして、しばらくして「さやか」という子が出勤してきた。2人とも年は20代前半で、超ミニの今風の派手なパンクファッションを身にまとっている。ファッションは、地方の方がいつも派手めだ。豹よりも豹柄がよく似合うような2人。アイラインをばっちり決めた目は、いつも暗く輝きを失っていて、会話をしても目を合わせることはない。ヤンキーによくありがちな・・・。
それとはなしにママに聞くと、彼女たちは借金返済のためにその種の仕事についているらしい。いわゆるワケ有り。彼女たちが時折見せるさびしそうな顔つきは、そうした生活からくるのかもしれない。見知らぬ客から電話が入り、指定の場所に出かけていく。そして一仕事を終えて、30分ぐらいで戻ってくる。

「あけみ」という子が2度目の仕事に出かけた時に、「さやか」という子が最初の客から戻ってきて、カウンターの向こうで「最悪だった」とため息をついた。きっと、しつこい客から嫌なことをされたのだろう。しかし、何があったのか聞かなかったし、向こうも聞かれても答えるつもりはなかったろう。
23時ごろ、遅れて出勤してきた「サキ」という子が、ママに遅刻を叱られた。叱られていても、ふてくさるこなく素直に言うことを聞いている。化粧も薄く、ファッションも普通のOL風で、"水商売"には不向きな感じで痛々しかった。それでも彼女は、屈託のない明るさがあっで陽気だった。カウンターの席の端っこに座った彼女は、ちょっとしたことにも笑顔を見せた。編みタイツが好きというぼくに、「今日は編みタイツなのよ」と足を見せてくれたりする。
そのうちに、「何処から来たのか」という話になったんだろうと思う。
「京都にいたし、それから静岡へ」
彼女のこの言葉が、どきんとぼくの胸にひびいた。流れ流れて函館へ。彼女の20幾年かの人生で、いろんなことがあったろう。寂れた港町。人生の吹き溜まり。サキという子の言葉は、ぐさっとぼくの胸に突き刺さった。彼女の人生からくる言葉だった。
「待っててね」深夜を過ぎて客の呼び出しがかかった時、彼女は、こう言い残して店を出て行った。
ごく普通のOLにしか見えない彼女。自分の武器を知っているとすれば、彼女は最強であるとしか言いようが無い。
だが、ぼくはこうした擬似恋愛をするには、あまりにも汚れちまっていた。実際に今日の格好ですら、乞食に近いものがある。

浸るにはあまりにも辛い世界を見せられて、ぼくは酔うに酔えなくなってしまっていた。サキちゃんが店を出てまもなく、ぼくは店を出て、もう一軒、飲み屋へ立ち寄った。こうせずには、滅入ってしまいそうだったのだ。結局、次の店で3時まで飲んだのだが、ほとんど覚えていない。
普段できないような深い人生経験を、ぼくはこの函館でした。だが、人生の深淵を垣間見たはずなのに、ぼくは酒を飲みすぎて記憶を無くしちまっていた。いつのまにか天気は回復し、凍てつく函館の空に大きな月がぽっかり浮かんでいたのを、帰りがけに見かけた記憶だけが頭にこびりついていた。

函館 朝市

「カニ食ってけなさい!」
威勢のよいかけ声が響き渡る。函館駅西口のそばには、約400軒もの店がひしめき合う朝市があり、通りは人と車でごったがえす。朝市はまさに台所。魚、野菜、珍味、昆布なんでも揃う。また、大衆食堂もたくさんあり、朝市見学の観光客がここぞとばかりに食欲を満たしていた。
次の朝、二日酔いの頭を抱え、ぼくは、この通りをぶらついていた。
「おにいさん。どっから?」
問い掛けてくる朝市のおばちゃんに、たわいもなくとっつかまり、ぼくの住む町に知り合いがいるからと心をがっちりとつかまれた上、
家族孝行のため土産を買っていけと説教される。さすがは、百戦錬磨。ぼくが二日酔いでヘロヘロというのに、ウニやら、塩辛やら、イクラを試食させた上に、カニまで焼いて試食させようとする。
大汗かいてしどろもどろの言い訳をし、なんとか朝市から脱出。朝市の売り手はおばちゃんに限らず、年齢多様、まさに老若男女の売り子さんたちが、あの手この手で客引きをしていた。そのとてつもないパワーにただ圧倒されるばかりだった。

朝市でパワーをもらって、元町、函館山を再び散策。今日は、空が晴れ上がり、昨夜のみぞれが凍りついた道路や街路樹が、朝の光を受けて輝いていた。だが、歩くほどに二日酔いがひどくなってくる。函館山にまた登り、そこでがまんの限界を感じたぼくは、駅に戻り、駅ビルのレストランで仮眠休憩。結局、この函館旅行では、朝市で試食させてもらった以外に、カニ、ウニ、ホタテ、イカ、イクラといった名物を口にすることはなかった。

”「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ。」
「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちつとも信用できません。」
「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村礒多三十七。」
「それは、何の事なの?」
「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでゐる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとつて、これくらゐの年齢の時が、一ばん大事で、」
「さうして、苦しい時なの?」
「何を言つてやがる。ふざけちやいけない。お前にだつて、少しは、わかつてゐる筈たがね。もう、これ以上は言はん。言ふと、気障(きざ)になる。おい、おれは旅に出るよ。」”
(太宰治「津軽」より)

旅にでるのなら、もっと若い頃に出かけるべきだったのかもしれない。感性がみずみずしく、いろいろなことに感動できるうちに。だが、昔よりも交通手段が発達した現代では、旅する者の体力を必要としなくなった。夜行列車に乗らずとも、その日の昼過ぎには北海道に到着できる。それでも、2月の北国への旅は、スキー旅行でもない限りよっぽどの物好きと思われるかもしれない。
南へ向かう人々は、希望に満ちての旅立ちなのだろうか。一方、北に向かう人の群れは誰も無口らしい。・・・失意の故の旅路なのか。

私もひとり 連絡船に乗り こごえそうな鴎(かもめ)見つめ 泣いていました
ああ 津軽海峡 冬景色    
(阿久悠作詞『津軽海峡冬景色』より)

寒さの戻った津軽海峡。
歌に出てくる青森から函館に向かう北への4時間の旅、青函連絡船に一人乗って冬の津軽海峡を渡る旅路は、今はしたくてもできない。
二日酔いでひどい頭痛のする中、日が暮れた盛岡の手前で、新幹線の車窓から見た雪深い山間の村。家々の窓辺の明かりが、まわりの雪景色を照らしていた。暖かい人の暮らしがそこにある。トンネルの合間に、ほんのひと時見えた景色に胸がキュンとなった。住む町へ帰ろう。ー了ー

”命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。”(太宰治「津軽」より)

テーマ:登山・ハイキング - ジャンル:旅行



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