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tetujin282828

Author:tetujin282828
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デジャ・ヴ
1.都市伝説
それまでに一度も経験したことがないのに、かつて経験したことがあるような感覚は、誰しもが一度は経験したことがあるだろう。日本語では既視感、既視体験と言うが、デジャヴの言葉自体はフランス語である。19世紀の終わりごろに、そのような「誤認識」、「記憶錯誤」を研究する学者達がとりあえずの正式な呼称としてフランス語の「デジャ・ヴ(dj vu)」あるいは「既視(already seen)」を一般的な呼称として用いたことから来ている。
***************************************
「俺の友達から聞いた話なんやけど・・・」
6人がけのコンパートメントの真ん中に陣取ったタカオカ・シンヤは、息を潜めて話し出した。
彼の友人が、彼の大学の先輩から相談を受けた話らしい。

「その先輩って言う人は、ベテランのバックパッカーで、しょっちゅう国内や国外を一人で旅をしよるんや。そんでな、去年の夏休みは、イタリアを旅行していて、ちょうど、オレらみたいに、ローマからイタリア半島を列車で南に下って、シチリアへ行ったらしいんよね。その先輩は、カターニャでしばらく観光しながら過ごしていて、ある日、街中のある道沿いに日本語で『たっしゃ(達者)』と書いてある店を見つけたんやて。人通りも少ない薄暗い裏道で日本語の看板の店があるのは不思議やけど、先輩は『達者』という看板だったんで日本人が経営している何かの店なんやろと軽い気持ちでその店に入ったそうなんや。実は、その先輩も後で分かったみたいなんやけど、『達者』と書いて『ダルマ』と読むんやて。おもちゃの『おきあがりこぼし』や選挙の時などに目を入れる『達磨(だるま)』は日本でも有名やね。」

思いもかけず、真剣な口調で続くタカオカの話に、ぼくらは聞き入っていた。

「実は、その『達者(だるま)』の元になっているんは、約70年前の清朝の時代の拷問、処刑方法の一つで、人間の両手両足を切断し、頭と胴体だけの状態にしたものなんやって。映画で『西太后』というのがあるけど、その話の中で、ごっつ、きれいな女中に西太后が嫉妬し、その女中を達者にし、塩水の入った壷に漬け込み、すぐに死なないように、食べ物だけは与えたっていうのがでてくんねん・・・。それで、しっかりと化膿止めや止血を行えば、イモ虫状態のまま何年も生き存えるそうなんやわ。ただ、食事は誰かが与えてやらねばならんけど・・・。
そんでな、先輩がカターニャで見つけたその店の中は薄暗く、数人の客がおったそうなんや。奥のほうに人形が並んでいて、よく見ると目や口が動くのが見えたんやって。そう、並んでいたのは達者や。全裸でロープに首をつながれて・・・。先輩は、店にいたマフィアらしい男が近づいてくる気配がしたんで、すぐさまその店を出ようとしたそうなんや。そのとき、後ろの横座りした達者の一つが喋ったんやって。しかも、日本語で。『お願い、日本人でしょう。私の話を聞いて!私は立教大学3年の◯◯よ。助けて!』でも、先輩は何も聞いてへん、また、日本語も分からへんふりしてその店を出たんやて。その後すぐ先輩は帰国しよって、立教大学の◯◯について調べたそうなんや。すると、確かに今年立教大学の女子学生がイタリアに一人旅に行き、行方不明になっているんやって。両親も捜索願いを出しているとか。その先輩は、このことをどない対処したらよいか悩んどるそうなんや。変に動いて自分も達者にされるかも。とか、何故そのとき◯◯の話を聞かへんかったか責められるかもとか。とにかく早く忘れたいからこれ以上は聞かんといてくれって言っているんやて。マフィアは見せしめや性的なおもちゃにするため、そういうことをすることがあるらしいんや。」

2.メッシーナへ
タカオカの話に、彼と向かい合わせて座っていたシラカワ・アヤカとスガヤ・ヨーコは、おびえた様子で互いに顔を見合わせた。ぼくらは、ローマ・ティブルティーナ(Tiburtina)駅から、シチリアのメッシーナへ向かうインテルシティ(IC)の車内にいた。20:55出発予定のこの列車は、イタリアの国らしく15分遅れて出発し、予定では翌朝5:20にメッシーナ中央駅に到着予定である。列車の6人がけのコンパートメントに乗り込んだのは、一人旅中のぼくと、ティブルティーナ駅でばったり会ったタカオカ・シンヤとニシザキ・ヒロミツのバックパッカーコンビ。そこに、女性の2人組のシラカワ・アヤカとスガヤ・ヨーコが加わった。
ローマからイタリア半島の突端の町パレルモへ鉄道の旅を目指していたぼくは、駅のインフォマシオンでウロウロしていたタカオカに行き先を聞かれ、「シチリア」と答えた。ローマからどこへ行こうか思案中で、観光スポットなどの情報を欲しがっていたタカオカとニシザキに、ローマから9時間、1泊ホテル代を浮かせられると説明したら、「じゃあ一緒に」ということになった。そして、ぼくら3人がいっしょになって駅の構内をウロウロしているところへ、彼女ら二人組みが同じように声を掛けてきて結局、総勢5名のグループとなってシチリアを目指すことになった。ただし、アヤカとヨーコは、シチリア島の入り口メッシーナを基点としてタオルミーナなどの観光地を巡るつもりらしい。ぼくらも、急遽、行き先をパレルモから少し手前のメッシーナに変更した。
やはり、9時間もの時間同席する人は、安心のおける人々であってほしいもので、連れが外人などの特殊な場合以外は日本人旅行者が数名のグループをつくって列車に乗ることが多い。ただ、そうすると、残念なことにせっかくの外国語の学習の機会を逃してしまう。ぼくは、ほとんどイタリア語ができないが、他のコンパートメントで乗り合わせた旅行者同士が繰り広げるであろう、暖かい感じの交流をあきらめなければならなかった。もちろん、イタリアの中年男の機関銃のようなおしゃべりに捕まった日には、やや閉口してしまうが。

3.エディーコラ
コンパートメントに5人分の席を確保すると、駅のエディーコラ(日本でいう駅のキオスクのようなもの)に飲み物を調達しに行く。当然、一番年下のぼくが買いにやらされる。750ml入りのペットボトルでサンペレグリノ(炭酸入りのナチュラルミネラルウォーター)が売られている。ぼくの前にレジに並んだ北欧から来たと思われる若い娘達が、ジュースを買っている。しかし、店員がとり出した缶ジュースは彼女達が欲しかったものではないらしい。店員と片言のイタリア語でその缶ジュースを前にしてやりとりをしていた。発車の時間がとうに過ぎていたので、いつ列車が発車するかわからない。だから、こっちも気が気ではない。女の子達は、結局、数分粘っていたもののジュースを買わずに列から離れていった。彼女達の、たかがジュースにしっかりと自己主張する点に感心しながら、750mlのミネラルウォーター2本と、それから、彼女達が購入を拒否した缶入りのオレンジジュースを5缶購入する。1990年代後半のイタリアでは、通貨がユーロに統一される前でまだリラが通貨であったが、リラは比較的弱い通貨で、国内のインフレのため100万リラ札などものすごい額の紙幣があった。トラベラーズチェックで約1万円のドルを両替すると、180万リラくらいある。そして、ひどく分厚い札束になる。しかも、当時のイタリアには同じ金額であっても、何種類も紙幣あるので非常に判りづらい。
両替を兼ねてジュース代金を100万リラ札で支払うと、エディーコラの制服を着た店員は札を光に透かして見たりして、偽札かどうか確かめた挙句、恐らく両替だと思うがお金を持ってどっかに行ってしまった。店員が帰ってくるのを待っていたが、なかなかやってこない。そのうち、シチリア行きの列車が動き出してしまった。
「つりを返せ。(Give the change back to me!)」
叫んだが、もうどうしようもないことが分かっていた。ぼくは、ミネラルウォーターとオレンジジュースを抱えると、つり銭を諦めて、走り去る列車に追いつくと、飛び乗った。うまく列車のデッキにしがみつくと、周りで何事かと見ていた通行人から賞賛の歓声があがる。
ヨーロッパの電車は、発車のベルなんて鳴らさない。おもむろにゆっくり走り出す。良く映画でプラットホームを走って列車に飛び乗るのを見かけるが、列車の出だしはかなりスピードが低いので、これが可能だ。
自分のコンパートメントへ戻ると、買ってきたジュースとミネラルウォーターを配りながら、エディーコラでの出来事をみんなに話した。タカオカは、アホちゃうかという目でこちらを見てくる。他のみんなは慰めてくれたが、当然のことながら誰も損失を補填するとは言わない。これが旅行者のルールなのだ。他人の不幸は共有しない。
さて、同乗した2人組の男たち、タカオカとニシザキは、大学の同級生だったらしい。日本を発ってまだ1週間。パリに到着した彼等はスイスに渡り、イタリアへ南下してきた。年齢は聞いていないが、恐らくぼくより4つか5つ、年上であろう。二人とも関西弁でしゃべっている。1年ぐらいの予定でヨーロッパのあちこちを回るとのこと。きっと、会社を辞めて旅しているのだろう。あるいはもともとフリーターか。ぼくらは、個人的なことで余計なことは聞かないし、また自らも話をしない。タカオカは赤いチェックのコットンシャツ、もう一人はジーンズのシャツのいでたちで、二人とも大きなバックパックにアルミのコップをぶら下げている。
アヤカは会社を辞めて旅行に出てきたと言う。コロのついた大きなスーツケースとクレッセント型のショルダーバッグ。当時、流行った大きな輪のピアス、ちょっと余計なものいろいろ付いてるよね、の服、田舎ヤクザチックなサングラス、多少カッコ悪い、かつらと見間違うようなワンレングスの髪、などなど。年の頃は30前後だが、自己主張がかなり強そうに見える。正体不明のおばさんだ。一方、ヨーコは現在、イギリスに留学中で、夏休とのこと。ナイロンのボストンバッグ一つの身軽さで、愛くるしい顔と後ろで結んだ髪がよくマッチしている。二人は、2日前にドイツで合流し、イタリアへ流れてきたらしい。二人とも、日本で見たらどちらかと言えば美女の部類に入るだろう。ただし、西洋人の堀の深い顔立ちを毎日見ていると、東洋人の持つのっぺりとした顔立ちがとても奇異に感じられて、日本で見た時ほどは、ここでは美しくは見えない。
話はそれるが、ヨーロッパを旅すれば日本人の顔立ちを忘れるのだけれども、日本人旅行者と韓国人や中国人など、日本人以外の旅行者との外観の違いは言葉を聞かなくてもどことなくわかる。これは日本人の顔立ちを忘れることと矛盾するし、なぜ識別できるのか不思議だ。恐らく、服装や独特の雰囲気などから判断しているのだろう。ただし、ぼくに関しては、成田空港で搭乗を待っている韓国のおばちゃんに韓国語で話しかけられることが多いから何も言えない。きっと、ぼくは日本人離れして見えるに違いない。そして、どちらかと言うと韓国人に似た顔つきなのか・・・。

4.うなされて・・・
ぼくはホテルの部屋のライティングデスクで、手紙を書いていた。背後でポタッという音がしてふり返ると、おかしなものは特に見当たらない。顔を元に戻したぼくは、背後にあるベッドのベージュ色の毛布の上に、何か黒っぽいものがあったのを見たような気がした。もう一度、ふり返ってよく見るとそこには確かに3cmぐらいの黒い虫がいる。近づいて良く見ると、それは蠍(さそり)だった。天井を見上げると、その真上に天井からぶら下がる電灯がある。天井裏にいたさそりが,電灯のケーブルの穴を伝わって落ちて来たのかもしれない。蠍は茶色の樹脂のような体をくねらせて動いている。
昔見た映画「汚れなき悪戯 (1955)  MARCELINO PAN Y VINO」で、マルセリ-ノ少年が蠍に刺され幾晩かうなされるというシーンが頭に浮かんだ。その瞬間に、ぼくは机の上に置いてあった聖書を持ち上げると上からなんどか蠍に叩きつけた。蠍はそのままの形でベッドの上で動かなくなった。全然動かないので、死んだように思える。毛布を引っ張って持ち上げて、神に感謝しながら聖書の上に蠍をそっと乗せると、開いていた部屋の窓からその蠍の死体を捨てた。神は罪を問わない。だから許しも必要ない・・・事を祈りながら・・・。
ベッドの上では、毛布にくるまって女が寝ていた。ぼくはその安らかな寝顔をしばらく眺めてから、毛布を持ち上げる。女は全裸だった。毛布の下から形の良い乳房が現れる。さらに、毛布をめくり上げると、女のへそのあたりで何かがうごめいている。そこには数匹の蠍がいた。その時だった。突然、女は第2肢のない両手でぼくにしがみついてきた。ぼくは驚いて、その手を振り払おうとした。女は体を起こし掴みかかってくる。ぼくは逃げようとしたが、足がもつれて動かない。
「やめろー・・・・」
深夜、イタリア半島をローマからメッシーナへ縦断するインテルシティのコンパートメントの座席で寝ていたぼくは、夢にうなされていたらしい。
「大丈夫?うなされていたわよ」
まわりに気を使って小声でそうささやくと、ぼくと真向かい合わせの席に座ったヨーコが心配そうにぼくの顔を覗き込んだ。列車はまだ暗い荒涼としたイタリア半島南部の海沿いの線路の上だ。時計を見ると午前4時。列車の窓のブラインドの隙間から真っ暗な空に三日月が輝いているのが見える。メッシーナ駅に到着するまでまだ1時間以上かかる。
「恐い夢を見ちゃった・・・。」
ぼくは、やれやれと軽く頭を振り、ミネラルウォーターを一口飲んだ。彼女は姉御みたいなところがあって、彼女がそばに居るだけで心が安らぐ感じがする。昨夜、なかなか寝付かれずに、一人コンパートメントを出て、列車の窓の外を見ながら通路でタバコを吸っていると、横に彼女が来た。彼女も寝付かれず気晴らしに来たらしい。ぼくがタバコを差し出すと、一本抜き取り口にくわえた。ぼくは、100円ライターでタバコに火をつけてあげる。
「ねえ、前にどこかで会っていない?」
ぼくが使っていた携帯用の灰皿にタバコの灰を落としながら、ヨーコはそう聞いてきた。四国生まれの彼女は、関西の大学を出て関西に就職し、会社を辞めて去年ロンドンに来たらしい。したがって、栃木で生まれ関東しか知らないぼくとは、接点はどこにもないはずである。しかし、ぼくも彼女とどこかで会ったことがあるような気がしていた。
「ひょっとして、前世では兄弟だったりして・・・」
いたずらっぽく笑う彼女に、こんな素敵な姉貴がいたら人生、最高に幸せだろうと思ってしまう。男ばかりの2人兄弟で育ったぼくにとって、2歳年上の23歳の女性というのはキラキラ輝く大切な宝物のように思えるのだ。

いまどきジークムント・フロイトなんて非科学的なので信じる人はいないであろう。しかし、その著書によれば「夢」は無意識に発する願望を充足させる機能を持っていて、それが「夢作業」によって加工され、検閲され、そして最終的に隠喩的なイメージとなるとしている。つまり、ぼくは青春期のギラギラ、ドロドロの性的な欲望がデフォルメされた夢を見たことになる。または、夢に出てきた蠍はぼくが幼児期に親から受けた圧力に起因する潜在的な不安の象徴か。いや,そうは思わない。それよりも、このときの悪夢は、昨夜列車の中でタカオカから聞いたダルマの話がイメージとして合成され潜在意識となり、夢となって現れたと考えるほうが合点がいく。ぼくは、人一倍恐がりのほうだ。スプラッタ映画など、画面に血が飛び出るような映画は苦手である。だから、ぼくは間違っても恐いものを見たいと望むことありえない。・・・などと考えていたらまた眠ってしまった。

5.陽光のメッシーナ
列車は空が白みかけた早朝のメッシーナ中央駅(Messina Centrale)についた。島へ渡るため途中フェリーに列車を積み込んだり、原因不明の停止時間があったりと予定より1時間以上遅れての到着だ。メッシーナには、メッシーナ中央駅の他に、メッシーナ・マリッティマ駅が手前にある。全ての電車はマリッティマ駅の後に中央駅を通るが、メッシーナで降りると言っていた隣のコンパートメントの客が手前の駅で降りたので不安になっていると、列車のなかで知り合ったイタリア人が、メッシーナ中央駅はもうすぐと教えてくれた。彼はまた、イタリア南部は治安が悪く、街を歩く時はスリだけでなく強盗もいるので注意すること、メインストリートから外れた路地では肩にかけたバッグをバイクに乗ったやつらがひったくって行くから、バッグはタスキがけにしなさいなどのアドバイスもくれた。
列車を降りるとそこはシチリア。東の空があかね色に染まりつつある。まだ早朝というのに熱風が吹き寄せ蒸し暑い。シチリア島でパレルモに続いて大きい都市のメッシーナ。駅の構内は結構人が多いが、駅のインフォマシオンはまだ閉まっている。ぼくらは女性2人を駅に置いて、ホテルを探すため、駅を出て大きな通りを歩いて行った。市内の道は、あちこちが一方通行のようだ。道の片側にイタリア車やドイツ車がずらっと駐車してある。ヨーロッパの旅行は、毎日ホテル探しの繰り返し。新しい土地に来ると、まずは駅のインフォメーションで安いホテルを探して落ち着く。ホテル探しの合間に、その辺の有名な観光地を回る。ぼくらは、いわゆる観光スポットハンターだった。一箇所に長く留まることはあまりしない。ホテルからホテルへ、列車から列車へ。毎日がこれの繰り返し。

6.ジプシー
メッシーナ海峡には断層があり、そのためこの町は度々地震に襲われている。建物はそのせいか幾分新しく見えるが、やはり港町。日が高くなるとともに活気があふれてくる。市内の繁華街を目指して歩いているとカイローリ広場にぶつかり、そのそばで比較的駅に近いところに2つ星のホテルが数件見つかった。その中の1軒は、入り口の横に見えたレストランの窓に明かりがついていた。きっと、朝食の用意をしているのだろう。夏の休暇シーズンなので結構にぎわっているようである。入り口を入ってコーヒーの香りの漂うフロントでたずねると、幸運なことに2部屋の空きがあるとのこと。一つはツインの部屋であるが、エキストラベッドを追加して、3人泊まれるようにしてくれるらしい。また、もう一つのダブルの部屋はすぐにでも使えるようだ。その部屋にアーリーチェックインをして、ぼくたちは荷物を預けた。チェックインの際に、パスポートの預け入れを求められたが、ぼくのは銀行でトラベラーズチェックを両替する際に必要なので,その後で預けることで話がついた。部屋は角部屋で、ホテルとしてのランクが低いわりにとても広く、建物の古さもマッチして雰囲気が良い。窓からは、路面電車がみえた。ダブルベッドに体を投げ出したタカオカとニシザキを尻目に、ぼくはアヤカとヨーコを呼びに駅に戻った。
地中海の陽光があふれだした街中を引き返し、駅に着くと中年のジプシーを思わせる男がアヤカとヨーコに話しかけていた。見たところ男は40代と思われる。かなり、なれなれしくアヤカに話しかけている。近づくと、グレーの縦のストライプの入ったボタンダウンのシャツに茶色のスラックス姿のその男は、ぼくにも愛想を振りまいた。シャツを捲り上げた腕に漢字のワンポイントの刺青が見える。恐らく坊主って書いてあるのだろうが、漢字が反転しているので良く見ないと判らない。禿げ上がった広い額に、緑色の目が印象的である。シェイクスピアの「オセロ」では、イアーゴゥが「嫉妬は緑色の目をした怪物~」と言い放っている。この時から緑色は「嫉妬」を表す色になったと言われる。ぼくはヨーコが笑顔で話をしていたこの男に、敵愾心に根ざしたジェラシーを感じていたのかもしれない。ヨーコの話を聞くと、彼女達が駅で待っている間、駅の構内をうろついていた数匹の野良犬に持っていたビスケットをあげたところ、犬にまとわりつかれてしまったらしい。そこにこの男が来て、犬を追い払ってくれたとのこと。そういえば、ぼくが駅に戻ってくる途中、シェトランド・シープ・ドッグの雑種など大型の犬が数匹群れを成してゴミ箱をあさっているのを見た。やせ衰えて、一目で野良犬とわかる。きっと、以前は人に飼われていたのだろう。すごく人懐こく、すれ違う時はしっぽを振ってずっとこっちを見つめている。シチリアにはこうした野良犬が沢山いる。
「このおじさん、夕食を招待してくれるって」
アヤカがぼくに言う。ぼくが男を見ると、握手を求めて手を差し出してくる。ヤルダワルダ・メベルナッチと名乗るその男と握手して、二言・三言英語で話しかけるが、ほとんど向こうの英語が聞き取れない。ひどいドイツなまりがあるようだ。アヤカがたどたどしいイタリア語に通訳して男に伝えてくれる。どうやら彼は、一緒に夕食をどうぞと言っているらしい。男から電話番号のメモを受け取ったアヤカを横目に見ながら、ぼくは二人の大きな荷物を手に取ると、その男を無視してホテルに向かって今来た道を歩き出していた。

7.吹き寄せるシロッコ -熱風の中で-
その日は、ホテルのそばの繁華街をぶらつくだけで終わった。日中の陽射しはかなり強い。日なたにいると、たちまち肌が灼けつくようになる。それでも、白人の老夫婦などが道を歩いて感心した。また、上半身はだかになって歩いている白人のバックパッカー達も見かけた。連中はなかなか潔い。しかし、陽焼けして真っ赤になっているので、あとが大変だろう。それまでも、イタリアに入ってから暑かったが、日陰に入ればすっと汗が引くように涼しかったし、風が吹けば心地よかった。しかしその日の午後は、風そのものがひどく熱かった。この熱風は、シロッコと呼ばれる季節風である。アフリカの沙漠地帯で熱せられ膨張した空気が地中海を渡り、シチリアや南部イタリアに吹き寄せる。乾燥していることはまれで、地中海を渡るうちにかなり湿気を帯びていることが多い。一旦吹き出すと数日は吹き続けるという。ぼくらはみんな、このシロッコによる日中の暑さには参っていたようだ。したがって、今日は完全休養日。毎日旅しているとこんな日もある。特に猛烈に暑いこんな日中はそうだ。
シチリアの町並みに、フェデリコ・フェリーニの映画「道」で描かれたような貧困をイメージしていたが、実際に歩いてみると全くちがった。裕福で近代的だった。むろん、ローマに「自転車泥棒」のような父子もいなかったのも確かだが。とはいえ、この南イタリアの貧困イメージのおかげで、シチリアには買い物の観光客がまだ余り押し寄せてこない。日本が地球のどこにあるのか正確に答えられるイタリア人は少ないにもかかわらず、街を歩いていると日本人であるがため珍しがられる。これに対し、ローマの目抜き通りなんて銀座さながら、可愛くない日本のOL達がうじゃうじゃ歩いていて、ほとんど悪夢のようだった。シチリアの方がずっとましである。
夕方になり、暑さがひと段落すると、どこかレストランへ食事に行こうということになった。その時、アヤカが朝のジプシー風の男の件を切り出した。タカオカとニシザキは、フロントからその男に電話してみるようにアヤカに勧める。ぼくらは外出がてら、アヤカにくっついて1階のフロントまで降りて行った。
フロントのまじめそうな中年の男が、アヤカが持っていたメモの電話番号に電話してくれる。呼び出し音が数回で向こうは出たらしく、イタリア語で話し出す。フロントの男は、向こうの男の言葉を英語に通訳してくれる。英語があまり得意ではないアヤカのため、ヨーコがその英語を日本語に通訳する。男の話は<この場にいる日本人みんなで夕飯食いに来い。><1時間後、ホテルまで迎えに行くから待っていろ>とのことらしい。
タカオカとニシザキは、この誘いにどうやら乗り気のよう。ぼくは、どうしようか迷っていた。外国の地で見知らぬ男の招待なぞ危なすぎる。それこそタカオカが列車の中で言っていたダルマにされてしまうんじゃないか。ぼくは、この5人の中では一番しっかりとしているように見えるヨーコの様子をうかがった。ヨーコもどうしようか迷っているようで、ぼくと目が合うと<どうする?>って目で聞いてくる。結局、ぼくらは、<赤信号大勢で渡れば恐くない>のとおり、男3人いればそう無茶なことはされないだろうとのタカオカの意見に押され、男が迎えに来るのを待つことにした。
小一時間してから、フロントのそばにある小さなスペース(と言っても普通の家の玄関先に毛が生えたくらいのロビーではあるが)で地図などを見ながら時間をつぶしていると、朝と同じ服装でヤルダワルダはやってきた。快活にフロントの男と挨拶すると、初見のタカオカとニシザキと握手を交わした。とにかく、彼の名前が言いづらい。彼は自分をヤルダと呼んでくれと言った。

8.イタリア流
男の家を目指して、大通りをみんなで歩いていくと、次第に道路を行く自動車の喧噪がひどくなってきた。車が数珠つなぎになって、その渋滞の車がみなクラクションを鳴らし続けているのだ。もう、夜の8時で、通勤ラッシュには時間帯が合わない。どうやらこの渋滞は、突発的なアクシデントがあって市内の交通路が一部止められたためらしい。この国では、クラクションはエンジンの次に必要な車のパーツのようだ。これがイタリア流。男の家は、駅と反対側でカイローリ広場かさらに広い通り沿いに北西へ20分ほど歩いた住宅街にあった。
そのあたりの住宅は高さ2メートルぐらいの白い壁の塀で囲われて、塀には赤い小さな木戸がついている。木戸をあけるとぶどうの木などを片隅に植えた土の庭があり、大きなシベリアンハスキーがぼくらを出迎えた。夏の南イタリアに、シベリアンハスキーは気温が高すぎてかわいそうな気もする。きっと、日本と同様に、イタリアでもオオカミみたいな犬が流行った時期があったのだろう。ただ、夜の薄暗い庭で、銀色の目を光らせているオオカミ犬の姿は少し恐い。
男の家は、この夏の間借りている1軒屋であった。家具はほとんどない。こんな家の借り賃がいくらぐらいするのか想像もつかないが、どうやらヤルダに対してジプシーみたいな印象を受けたのは間違っていたようだ。少なくとも、家賃を払えるだけのお金はあるようだ。ヤルダは、やはりドイツ語を話す40代の中国人の男とその家をシェアしていた。家の中に入ると、チョウと名乗る背の高いその中国人が出てきて挨拶をする。
一般に、イタリアの家の室内は意外と暗い。ホテルでも小さな白熱電球や間接照明が彼らの好みである。活動はもっぱら外で開放的にというイタリア人、家の中はゆったりと休んだり物事を考えたりするところなのだろう。ぼくらはダイニングに置かれた広いテーブルに案内され、用意してあった発泡性ワインとチップスで乾杯をした。グラスの数が足らないらしく、ワインを小さなコーヒーカップで飲むことになったが・・・。ドイツ語がわからないぼくらは、アヤカの通訳が頼りだった。したがって、アヤカが会話の中心にいつもいた。なかなか会話に参加できないぼくらは、アヤカとヤルダとチョウの3人の会話をだまって聞いているしかない。逆に、こうなると、何かいたたまれないものを感じてしまう。だから、ぼくは家族の会話なんかに興味がない長男、のような感じで、会話に加わりたいけれども加われない、そんな様子でずっといた。そんなぼくらを気にしてか、時折、ヤルダが英語で話しかけてくる。しかし、ドイツ語なまりはひどくて、なかなか話が通じない。それでも、ヨーコは多少なりとも理解できるらしく、会話が成立している様子である。だから、たまに会話に参加できるのは、この時だけ。
ただし、こんな初対面での会話にはパターンがある。これまでヨーロッパを回って、しょっちゅう質問されてきた事柄は、ベストファイブをあげれば次のとおりである。
1.来たのは旅行で?ビジネスで?
2.ヨーロッパに来てどれぐらい?
3.どこの国の料理が好き?
4.日本のどこから?
  (もっとも、彼等はTokyoしかしらないが・・・)
5.カンフーは得意?
また、社交辞令ではなく、個人的に興味を持たれた場合は<何歳?何座?>のような質問が加わることもある。東洋人はひげが薄く、しかも髪の毛が多いせいで若く見えるようである。実際の年齢を言うと驚かれることがある。欧州では、若くして頭がはげる人が多い。そのせいか、ローマでは、酒に酔った若者達が、店のショーウィンドウに飾られていた男性用のかつらを見て大声で騒いでいたのを見た。彼等にとって髪の毛が薄くなることは、意外に大きな問題なのかもしれない。
ヤルダとチョウからの質問も、大体こんな感じであった。彼等からすれば、ぼくらに対する興味よりも、むしろ会話のためのネタなのだろう。途中、アヤカとヨーコが手伝って、食事を運んでくる。晩餐は、チーズと生ハムの前菜、パスタ、それと恐らく街中の惣菜屋で買ったのであろうプラスチックの容器に入った牛肉のトマト煮と進んだ。アヤカが頑張って通訳するが、話好きのチョウの会話スピードには到底追いつかない。
「シチリ島の見所はどこ?」と質問すると、チョウは笑いながら指を立てて左右にチッチッとふり、「ノー」の身振りをする。ヤルダとドイツ語のやり取りがあって、しかし、結論らしきものはなし。
この時出された料理はどれも美味しかった。とくに、前菜のモッツァレラは、一口食べると乳の甘い香りが口の中全体に広がった。生まれてこのかた食べたなかで、もっとも美味な乳製品だったと思う。

9.不思議な地点
遠い昔、シチリアはギリシアの植民地として栄えた。その後、紀元前3世紀にカルタゴと覇権を争って勝利を収めたローマ帝国に統治された。476年に西ローマ帝国が崩壊した後、ヴァンダル王国、オドアケル王国、東ゴート王国、ビザンティン帝国と次々に支配者を替え、9世紀にはイスラム(サラセン)帝国の制圧下に置かれた。それがこの島に東方の優れた学問や芸術をもたらすことになる。かの有名なアルキメデスは、シチリアのシラクサの輩出である。
さらに11世紀になるとノルマン人が支配するようになり、12世紀末には神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世が妻の縁(彼の妻はシチリア王女だった)で、島の領有権を主張して強引に版図に組み入れて、シチリアは黄金時代を迎える。なんともめまぐるしい。ゲーテにとってシチリアは、ヨーロッパではなく、アジアやアフリカを意味しており、「世界史のかくも多くの活動半径がそこに向けられているこの不思議な地点」と言っている。
施政者の交代はその後も続く。この島がたどったこの特異な歴史の道のりは、各時代のそれぞれ異なる民族が遺した文化遺産をみれば理解できる。例えば、古代ギリシアの野外劇場、ビザンチンモザイクで飾られた黄金色の礼拝堂、アラベスク風の装飾の赤いドーム、あるいはイスラムとノルマンの折衷様式(アラブ・ノルマン様式)のパレルモの大聖堂などの考古学的に重要な遺跡や美術的価値の高い教会建造物が、日本でいえば四国ほどの大きさのこの島に一堂に会している。
また、シチリアが「地中海の十字路」と呼ばれるのは、前述したように古代より幾多の民族が植民支配を重ね、その結果としてさまざまな文化の香りが漂うからであるけれども、その歴史を反映してシチリア独特の食事文化も発展している。「食べる時は扉を閉めろ。話す時は後ろを見よ」という、シチリアの諺がある。フランスやスペインの支配下にあった時、島民に重税を課し、反乱を避けるために密偵を放された時代の島民の知恵で、値段の安い茄子、鰯、パスタなどを使った料理がたくさん生まれたのだ。

10.混濁した意識の中で
ふと、気がついて時計を見るともう夜の11時。テーブルでは、タカオカとニシザキが酔いつぶれ、居眠りを始めている。アヤカの姿は見えない。ヨーコがチョウとヤルダに囲まれて、談笑している。しかし、ヨーコもかなり辛そうにしている。睡魔をこらえながら彼等の様子を見ていたが、2~3秒意識が飛んでしまいそうになる。そろそろ帰ろうよと言ったつもりだが、眠すぎて体が言うことをきかない。そのうち、ぼくは睡魔に支配され、急速に意識を失っていく自分がわかった。
再び、朦朧としているが、まわりの状況がわずかにわかるほどに意識が戻ったときは、ぼくはダイニングに置いてあったソファーの上に寝かされていた。しまった、寝込んでしまったと慌てたが、体がしびれて動かない。焦点のなかなか合わない目を見開いて周りを見渡すも、かろうじてわかったのはまわりには誰もいないことだけだった。体を起こそうとして、ぼくは手足に全く力の入らないことに気づいた。なにかがおかしい。混濁した意識の中で、ぼくはとりあえず何かできることがないかを探った。部屋の天井を通して、おそらく直上の部屋であろう2階から、だれか女性の悲鳴が聞こえる。そして、床を踏み鳴らす物音。くぐもった話声。何か良からぬ事態が発生しているようだ。
自分の指先に意識を集中してみる。左手の人差し指を動かすイメージを必死に脳内で作り上げる。かすかに指先が反応しそうな感触が返ってくる。ゆっくり、ゆっくりと人差し指を動かす努力を続ける。指の反応がだんだん大きくなってくるのがわかった。人差し指の動きにあわせて、左手の指全体が徐々にではあるが動かせられるようになってきた。手のひらを握り締められるようになって、ぼくは気づいた。ぼくは両手首を後ろ手で縛られている。足もなんとか持ち上げるまで動かせるようになったが、足首も何かで縛り上げられているようである。
2階から聞こえていた物音は、大きな悲鳴とともに急に途絶えた。その後、床の上を歩き回っているらしい足音が時より聞こえてくる。
ぼくは、ソファーに腰掛けて立ち上がる努力をした。ソファーの上の腰をずらすと、両足が床の上に落ちた。そこから、ひざを曲げて立ち上がる体勢まで持っていく。なんとか上半身を起こして、ソファーに腰掛けた状態になることができた。ここから、上体をさらに前にかがませて、立ち上がる準備をする。時間がかかったが、なんとか立ち上がることができた。寝ているのと、立ち上がったのでは精神的にずいぶん違う。視野が高くなった分、気持ちが前向きになる。なんとか、事態に対処するため頑張ってみようと。

11.闇の中
その時だった。
チョウがダイニングの扉を開けて中に入ってきた。手に何かをぶら下げていたが、それはマネキンの首に見えた。チョウはぼくを見ると、うれしそうに奇妙な笑い声を発しながら近づいてくる。ぼくはこの事態が飲み込めず、茫然自失になっていた。チョウは手に持っていたマネキンの首をぼくに投げつけてきた。床にころがったそれを見ると、それは目を固く閉じたタカオカの生首だった。首の切り口のところから、血がしたたっている。驚いてへたり込んだぼくを見て、またチョウは甲高い奇妙な声で笑うと、ドイツ語でなにやら言ってくる。おもむろに腹にチョウからけりを食らい、ぼくは悶絶した。息がまったくできなくなってしまった。倒れたぼくの背中をチョウはさらにけりつけてくる。チョウは身動きができないぼくを肩に担ぎ上げると、ダイニングを出て二階につながる階段を上り始めた。必死で抵抗を試みるが、手足を縛られているので逃げられない。階段を上りきったすぐの部屋にぼくは運び込まれた。チョウは担いでいたぼくをベッドに投げ下ろす。投げ下ろされた時、ぼくの背中にベッドの上にあった、なにか柔らかいものがあたった。横を見るとシャワーカーテンを敷いたベッドの上には無残な姿のヨーコがいた。もう、息絶えているようで、ピクとも動かない。彼女の真っ白い全裸の体がそこにあった。腕を切断されて、敷かれたシャワーカーテンの上には血だまりができている。ぼくは、彼女の血だまりの感触を背中に感じて、ようやく事態を飲み込むことができた。ぼくは殺される。
そばで、一部始終をビデオカメラで撮影していたアントニアが、ニタニタ笑いながら近寄ってくる。チョウは、ぼくをうつぶせにすると、後ろ手に縛ったぼくの手を広げ、指をつかむとそれをねじ上げた。
指が折れそうな激痛が全身を貫いた。チョウは、片手で床に落ちていたペンチを拾い上げると、掴んでいたぼくの指にペンチの刃を押し当てた。そして、徐々に力を入れていく。
指先に激痛が再度走り、ぼくの喉から悲鳴が漏れていた。殺される。
ぼくは、ありったけの力を振り絞り、体を回転させ、仰向けになった。チョウの興奮して赤黒くふくれあがった顔が目に入る。その顔は、ケタケタ奇妙な声をあげながら、なおも笑っていた。
ぼくは、体をはねて、ありったけの力でチョウの顔に頭突きを食らわせた。額に強い衝撃が走り、見事にチョウの顔面にヒットした。その勢いで、チョウは後ろに吹っ飛んだ。鼻を抑えて起き上がるチョウ。すぐさま鼻血が吹き出てきて、チョウの顔は真っ赤になった。
ベッドの上の血で、ぼくを後ろ手に縛っていたロープが緩みだしていた。立ち上がったぼくは、ベッドの上に放り出してあった大きな肉切り包丁をめがけて、縛られた後ろ手を体ごとぶつけていった。ざっくりと手首が切れた感触があったが、手を縛っていたロープが切れた。
肉切り包丁をぼくは掴むと、足のロープを切った。切った手首から、おびただしい血が吹き出ている。
肉切り包丁を手にしたぼくを見て、チョウは、血だらけの顔で笑いながらなおも近づいてきた。手には、ナイフが握られている。ぼくは無我夢中で肉切り包丁を手に持つと、腰だめにしてチョウにぶちあたっていった。どうせ死ぬのなら、せめてこいつも一緒に地獄へ落としてやる。
包丁の先に、チョウの腹部のいやな感触があった。みると包丁は根元までチョウの腹に突き刺さっていた。ぼくは、ひざでチョウをひざでけりながら、包丁を引き抜いた。チョウは、自分の腹の傷のところからでてくる内臓を信じられないと言った目で見ている。
そのとき、ヤルダがビデオカメラを手に殴りかかってきた。額に衝撃があり、ぼくは崩れ落ちた。顔面をねらって、蹴ってきたその足を包丁で振り払った。包丁はヤルダの軸足のかかとにざっくりとささったが、ぼくは肩口をけられたショックで包丁を手から離してしまった。
ヤルダがもんどり打って床に倒れると同時に、這って部屋のドアに逃げ出した。
チョウがナイフを手に迫ってくる。ぼくは、跳ね起きると、ナイフを持ったチョウの手めがけて、思いっきり蹴りを入れた。ナイフがけし飛んで、チョウの腹に蹴りが入った。また、チョウの傷口から、血とともにグロテスクな色の内臓がはみ出てくる。ぼくは、床に転がったナイフを手にすると、チョウの喉を突き立てた。チョウが首を押さえるが、喉からは血が噴出すとともに、空気が漏れてシュウシュウ音がする。
ぼくは、這って部屋を出て行こうとするヤルダを追った。階段を転がり落ちたヤルダに追いつくと、背中から心臓をめがけてナイフを突き立てた。鈍い感触があり、ナイフは跳ね返された。ヤルダは意味不明の言葉で悲鳴をあげている。ぼくは、もう1度、同じ場所にナイフを突き立てた。今度は、根元までナイフの刃がめり込み、ヤルダは大きな声でうめくと動かなくなった。

12.白い下着
へたへた崩れ落ちたぼくは、どれくらいの時間そうしていたのだろう。しんと静まり返った家の中で、ぼくはゆるゆる立ち上がった。どこかにいるかもしれないやつらの仲間がやってこないうちに、ぼくはこの家から逃げだそうと思った。やつらが犯行をビデオで撮っていたのは、「犯行の場面を撮影して売るのが目的」としか考えられない。きっと、ビデオの売買ルートにはマフィアの組織かなんかがあるに違いない。ただ、逃げる前に、死んだヨーコに別れを告げたかった。彼女の死体が警察に発見されるにせよ、地下組織に処分されるにせよ、ヨーコの裸を人の目にさらしたくなかった。ぼくは、階段をノロノロあがった。階段には、さっきは気づかなかったが、誰のかわからない人間の切断された足が転がっている。みんな殺されてしまったんだ。2階の寝室に戻ると、ベッドに全裸で横たわるヨーコの体に、ベッドの下に丸めてあった毛布を広げてかける。ヨーコは眠るようにして、ベッドにいた。ギリシアの大理石の彫像を思わせるような真白い肌。下腹部に大きく開けられた傷口と、切断された腕が無ければ、まるで何事もなかったように見える。青白く見える顔つきが安らかなのは、致命傷に至る前に気を失ったためかもしれない。ヨーコの体は、まだ、ずいぶんと温かみを残しているように思えた。
床に転がっている血だらけのビデオカメラを拾い上げた。ぼくは、中に入っているテープをとりだした。このテープを持ち出せば、ぼくが此処にいたことは誰にも知られまい。念のため、肉切り包丁を拾い上げ、片隅に脱ぎ捨ててあった女性の水色のワンピースに包んだ。見ると、女性用の白いレースの下着もそばに落ちている。ぼくは、1階に降りると、ヤルダの胸からナイフを抜きとり、これも肉切り包丁とともにワンピースに包んだ。ヤルダは完全に息絶えていた。
家のドアをあけると、外は白み始めていた。また、猛烈な暑さの一日が始まる。体中の痛みをこらえて、ぼくは夜明け間近の外へ一歩、足を踏み出した。庭で寝ていたシベリアンハスキーが、物音を聞きつけて、うなり声をあげながら近づいてくる。薄暗闇のなかで、犬の銀色の目が怒りに燃えて光っている。ぼくは、その目をにらみつけていた。かみついて来るなら来い。ぼくは、脇に抱えていた肉切り包丁の柄を握り締めた。一歩、前に出る。ぼくの進んだ分だけ、シベリアンハスキーはうなり声をあげながら後ずさりをする。距離は変わらない。木戸にたどり着いたぼくは、シベリアンハスキーを睨み付けていた視線をふとはずした。犬も、それを見てうなり声を止める。木戸を開けるとシベリアンハスキーは、こっちを警戒しながらもとの寝床に戻っていった。
外に出て、ぼくは全身が血だらけであることに気づいた。これで町をあるけば、警察がすぐに駆けつけてくる。できれば、人知られずにシチリアから出て行きたかった。警察に捕まったら最後、ぼくの氏名や国籍などが漏れて、一生、どこかの地下組織に命を狙われることになるかもしれない。ぼくは、着ていた血だらけのテーシャツとチノパンを脱ぐと、チェックのトランクス一丁になった。腹に巻いていた、パスポートが入ったウエストバッグはそのままに。この街では、そうした格好で若者達が良く歩いていた。
街角のゴミ置き場で、ビデオカセットのプラスチックを半分にぶち折って録画テープを引き出すと、グジャグジャに丸めて脱いだテーシャツとチノパンに包んで捨てた。ワンピースに包んだ肉切り包丁とナイフは、置いてあったゴミの詰まったダンボールの中に入れて隠す。これで、ぼくがあそこにいた証拠はどこにも残らないはず。そして、ぼくはややもすると意識を失ってしまいそうになりながらも、ホテルまでの早朝の道のりをなんとか帰っていった。

13.二人のカラビニエリ
ホテルの玄関ドアを押してフロントに行くと、昨日フロントをやっていた男がいた。いつ見ても同じ男なので、ひょっとしたら、このホテルのオーナー兼フロント係なのかもしれない。フロントデスクでペーパーブックに目を落としていた男は、全身血だらけでパンツ一丁のぼくの姿を見てぎょっとしたようだ。
<大丈夫か?>
と声を掛けてくる。
<OK。大丈夫。部屋をチェックアウトしたいんだけど・・・>
ぼくの返事に、フロントの男は怪訝な顔をした。
<夕べ、あなた達のグループの一人の女性が、みんな別のところに泊まることになったと言ってチェックアウトしていったが・・・>
フロントの男によると、夕べ11時頃にアヤカがフロントに来て、<食事を招待された男のところにみんな泊まることにしたので、みんなの洗面道具などの身の回りの荷物を持って行きたい。ほかの荷物は明日本人が取りに来る>と言って、いくつかの荷物を持って行ったとのこと。念のため、連絡先の電話番号のメモも置いていったらしい。部屋に通されると、ぼくは自分の荷物を確かめた。案の定、金目のものはすべて盗られている。
どういうことなのだろう。フロントの男は嘘をついているようには見えない。本気で心配してくれている様子である。<このフロントの男も、一味の仲間?> ぼくは、そう考えて、すぐに打ち消した。
このホテルは、昨日の朝、ぼくも歩いて探した。だから、このホテルに勤めるこの男が一味である可能性は低い。とすれば、アヤカが一味か?そう言えば、みんなの反対を押し切ってあの家で食事をすることを強く主張していた。とすれば、すべてがローマでアヤカと出会った時から仕組まれた罠だったのだ。ぼくらは、やつらが仕掛けたくもの巣のような罠に、能天気に絡め取られて行ったのだ。ぼくは、覚悟を決めた。ヤツらと戦ってやる。敵の正体を暴いてやる。

<実は、トラブルに巻き込まれてしまった。昨晩、あの男の家で殺人があったんだ>
ぼくは、部屋のドアのところにたたずんでいたフロントの男を振り返り、警察に連絡してくれるよう頼んだ。フロントの男は、洗面所のタオルを取ってぼくに渡すと、部屋の受話器をとりあげ警察に電話を始めた。電話の相手にイタリア語で手短に話すと、受話器を置いた。警察は早朝なのに、すぐに来てくれるらしい。
洗面所の鏡の中に、異様にやつれて青白い顔をした自分の姿が映っている。ぼくは、とりあえず、タオルを濡らして体中にこびりついた血をふき取った。手首から、まだ血がにじんできたが、フロントの男が持ってきた包帯で止血をした。手首の傷は、ざっくり骨まで行っているようで、白い肉片が覗いていた。自分の荷物をひっくり返し、残っていた衣類を身につける。そうしている内にサイレンが聞こえ、薄いモスグレーの上着に斜にかけた白いベルト濃紺に、濃紺に赤い線などが入っているズボンの制服をきた2人のカラビニエリがやってきた。腰からぶら下げた警棒を携帯している。ときどき、フロントの男の通訳の助けを借りながら、ぼくは彼等に昨晩起こったことを掻い摘んで英語で説明した。殺人(murder)ということで、話を聞いていた2人のカラビニェリに緊張が走る。話をしているうちに、警官のトランシーバーに無線がはいった。無線機に耳を傾けていた警官が言った。
「本署に来てくれ」
鼻の下に髭を生やした年配の方のカラビニェリは、ぼくの怪我を心配したものの、警察署まで来てくれと言う。警官とともに、ぼくはアルファロメオ155のパトカーの後部座席に乗り込んだ。車の性能がいいのか、単に運転が乱暴なのかわからないが、体がシートにめりこむほどの加速をつけてパトカーは走りだした。赤信号も交差点も、赤灯をまわしながら猛スピードでメッシーナの街を通り抜ける。
・・・いったい、どうなっているんだ。ぼくは不安になった。いったい、どこへ連れて行こうとしているか。ぼくの不安を知ってか、もう一人の若いカラビニェリが猫なで声で話しかけてきた。
<おまえは、イタリアへ何しに来たんだ?>
 ぼくは、放心しながら答えた。
<Trip (旅行)>
 すると、今度はこう言ってくる。
<日本のどこに住んでいるんだ?>
「・・・・」
 ぼくの不安をよそに、相手はさらに質問を重ねてくる。
<日本には大きな島が4つあるけど、ホンシュウとキュウシュウと……あとは何ていうんだ?>
職務質問だったのだろうか、あいまいに返事をしているうちに、パトカーは、駅前の一方通行の道をぶっ飛ばして警察署(Questura)らしき所に到着した。
パトカーを降りると、建物の中から偉そうな人が出てくる。10人近い署員が、ワイワイガヤガヤ言いながらぼくらを迎える。その中に、アヤカがいた。

14.てめえ!殺す!
アヤカは、車から降りたぼくを指差し、ドイツ語でなにやら騒いでいる。アヤカが手錠などで拘束されていないことを不思議に思いながら、ぼくは警官達に取り囲まれ肩を掴まれて建物の中に入った。歩いている間中、なおもアヤカがドイツ語でわめき散らしている。ヤツが何を言っているのか全くわからない。と、そのときになって、ぼくはアヤカがわめいている猟奇殺人の容疑者になっていることに気がついた。どうやら、アヤカはぼくが犯人だと訴えている様子なのだ。
最初の内は、アヤカが何を言おうが、ぼくは被害者なのだから少し調べれば何が起こったのかはっきりするだろうと思っていた。しかし、冷静になって考えると、いま、ぼくには自分の無実を証明するものがなんにも無いことに気づいた。明確な証拠となるべきビデオテープは、いまごろ、ゴミ回収車が回収した後であろう。しかも、ぼくは凶器となったナイフと包丁を隠滅している。ただし、逆に言えば、ぼくが殺人を犯したという明確な証拠も無い。
アヤカが、なおも声高にぼくを指差してわめき続けている。ぼくを犯人にして、アイツにどんな利益があると言うのだ。そこで、ぼくは気づいた。みなに頼まれてホテルへ荷物をとりに戻ったアヤカは、ヤルダの家で一人だけ早めに寝たことから惨事を逃れた。朝、起きたらみんなが惨殺されていた。猟奇的な殺人の犯人は、このぼくである・・・。こう主張することで、ヤツらの犯行を隠せるし、ぼく一人に罪を着せる事ができる・・・。アイツの狙いがわかった時、ぼくは逆上していた。
「てめえ。ふざけるな!」
アヤカに掴みかかったぼくは、うしろの若いカラビニェリに取り押さえられる。なおも、あばれるぼくは大勢の警官に押さえ込まれ、身動きできない。
「やめろ!」
無我夢中でもがいたぼくは、そこで目がさめた。目の前に、心配そうな顔で覗き込むヨーコがいた。

15.水色のワンピース
「大丈夫?また、うなされていたわよ」
前ボタンの水色のワンピースを着たヨーコが、ベッドに腰をかけ心配そうにぼくを見ていた。ぼくは、ホテルのダブルベッドの上で寝ていた。窓からは、シチリアの陽光が差し込んでいる。時計を見ると昼過ぎだった。
「あー夢か!」
ぼくは、なんとも嫌な悪夢の残滓にやりきれない思いを募らせていた。夢の名残のせいか、体中に痛みを感じるような気がする。寝違えでもしたのだろうか。手首を見ると、やや赤くはれているようにも見える。
<どんな夢を見てたの?>
ヨーコの質問に<落下する夢>と答える。本当の夢の内容は、言うにはあまりにもひどすぎた。
<落っこちる夢って、何かを失ったりすることへの不安や恐れの現れじゃなかった?>
<フロイトにしろ、ユングにしろ、きょう日、夢判断を信じる人はいないっすよ>

中国の想像上の動物の獏は、形は熊に似、鼻は象の如く、目は犀の如く、尾は牛の如くで、頭小さく、人の悪夢を食らうと言う。其の皮を敷き、或いは絵に描いて持てば邪気を避けるらしい。ぼく心に住み着き、さきの悪夢を食らえば食べきれないほどの量かもしれない。夢は白黒と言われていたように思うが、先ほどの悪夢は、血の色が妙に印象的なフルカラーだった。普段、夢を見ないか見てもすぐに忘れてしまうが、よっぽどタカオカの言っていたダルマの話が強烈に心に焼きついていたのだろうか、妙に辻褄が合った長い長い夢に不思議な感覚を覚えていた。ヨーコが目の前にいる今と、さっきの悲惨な悪夢とどっちが現実なんだかしばらく混乱していたのだ。夢は実体験を元に見るものと思っていたが、一度も体験した事の無い未体験の事まで見るのであろう。いつしか見たスプラッタ映画などリアルな映像により、未経験の体験まで自分の体験として記憶してしまっているのであろうか。

「ほかの皆は?」
聞くと、タカオカとニシザキとアヤカはバスでタオルミーナに出かけたらしい。洗濯物がたまっていたヨーコは、でかけずにホテルで洗濯。
「心配だったんだから・・・」
ヨーコは言う。今朝、タカオカとニシザキに案内されてホテルへ到着した彼女は、彼女達の部屋のはずのダブルベッドで寝ているぼくを見て、しかも、あまりにもうなされているので心配になったらしい。
「ありがとう」
ぼくは、朝、部屋にチェックインするや、ベッドで眠りこけてしまったようだ。そうか、ホテルから一歩も外に出ていないのか。ぼくは、平穏な現実に今いることに感謝の気持ちで一杯だった。
「洗濯物があったら一緒に洗濯して上げるわよ。ただ、バスルームに干してある下着は見ないでね。」
ヨーコが言う。
「いいよ。それよりお腹が空いた。どっか食べに行こう。」
「いいわよ。何が食べたい?」
「チーズとスパゲティ以外」
「変な人」
ヨーコが答える。結局、ぼく等は、メッシーナの町の市場めざして、ぶらぶら市内見物をすることにして出かけた。

16.ベージュの下着
ぼくらは強烈な日差しの下で、メッシーナの町並みを、ぶらぶら歩いた。街角で出会った子供達は陽気でシャイで素直な子が多かった。旅をするときに一番楽しいのは土地の人に直に触れることが出来る瞬間。たとえ、言葉があまり通じなくても笑顔で心が伝わることが多い。その仲のよい姉弟はおばぁちゃんと家の外で遊んでいた。さらに通りを歩いていくと魚や野菜、肉を売っている市場(メルカート)があった。魚市場では、水揚げされたばかりのウニやマグロ、タコやイカが並び、伊勢エビやシャコはピチピチとはねていて、どれもおいしそう。じろじろ見ていると、ウニ売りのお兄さんが試食させてくれたりする。
そして、市場の近くで見つけたトラットリアに立ち寄り、巨大な餃子のようなカルツオーネと、これも伝統料理のクスクスをヨーコと二人でシェアして食べる。本来、クスクスはアラブ料理だが、アラブとの交流の要所だったシチリアでも郷土料理とされているようだ。米のように小さい山盛りパスタに魚介類のたくさん入ったスパイシーなスープがかかっている。暑さで食欲がなかったぼくは、ヨーコに無理やり食べさせられて一息つく。
ヨーコとは、いろいろな話をした。彼女には25才の婚約者がイギリスで待っていること。男は、イギリス人ではなく、日本人であること。ぼくが、たばこを吸う時に、左手で火をつけるのを見て、彼女が知り合う男の人はみんな左利きであることなどなどなど。
<彼女はいる?>
彼女の質問に、
<いつでも、片思いなんだ>
と答えるぼく。
そんな時、いつも恋を諦めるのかという彼女の問いに、酒を飲んで忘れるよと答える。彼女も失恋の経験があるらしい。グラスなみなみについだウィスキーを一気飲みして、ひどい目にあったと彼女は言った。
<こんな可愛い人を振るなんて、馬鹿な男もいるもんだ。>
ぼくは、外国に飛び出してくる前に、いろいろあったであろう彼女の人生に思いをめぐらせ、そして、その男に猛烈なジェラシーを感じていた。

彼女の前ボタンの水色のワンピース。どこかで見たことがあるような気がしていたが、それが、悪夢の中で現れたものかもしれないとぼくはふと思った。あの悪夢はいったい何を暗示しているのだろう。ひどく、気になってぼくは彼女に質問した。
「ヨーコさん。どうしても聞きたいことがあるんだけど。」
「なあに?なんでも聞いていいわよ?」
「えーと。あの・・・」
「なによ、はっきり言いなさいよ。」
「怒らないで聞いてくれる?」
「怒らないって。」
「あの、下着の色。なに?」
「え?。わたしの?」
「・・・」
「きょうはベージュよ。」
「そうか。よかった。」
「なによ。」
ぼくは安心した。ぼくがホテルで見た悪夢は、でたらめなのだ。ぼくは、正夢を見た経験などないと記憶する。悪夢のあの部屋で見た下着の色は、白だったはず。つまり、ぼくが見た夢は現実とは異なっている。だから、見た夢は予知ではないし、第一、夢で見たようなあれほどの惨事は現実には滅多に起こるはずもない。
ぼくは、なんだか安心してうれしくなった。デジャヴと予知はまったく異なる現象である。よく、飛行機に乗る前の晩に飛行機が墜落する夢を見て、搭乗を取り止めて命拾いをしたなどの話を聞くが、これは予知でありデジャヴとは異なる。予知は、科学的に説明がまったくできないオカルトの世界の話である。
一方、たとえば生まれて初めて入った部屋で、過去に来たことがあると感じるそれでは、その隣の部屋を様子を知ることは無い。現象の説明はともかく、予知とデジャヴは、その感受のメカニズムがまったく異なる。

17.刺青
現在、デジャヴ現象を説明するメカニズムとして以下の3つが考えられている。
1.海馬傍回の突発的な神経活動
脳内の空間処理と"慣れ"の感覚を処理する部分である海馬傍回における小さな発作が原因であるとするもの。
2.第二視覚路の遅延
視覚情報は二つの経路を通過して認識される。一つは後頭葉にある視覚皮質へと直接届き、もう一つはそれより若干遅れて、後頭葉へと向かいながら脳の様々なエリア、特に頭頂葉を経由する。第二視覚路の刺激が何らかの理由で特に遅れた場合、脳はこれら二つの視覚路からの情報を、それぞれ別の体験として認識することがデジャヴの原因と推測するもの。
3.不注意による錯覚
二度目の訪問時、海馬はその景色を見た事がないものとして意識的に処理するが、一方で短期記憶の中には、前回の訪問時に見た景色の情報がいまだに残されており、それを「見た事がある」と認識することによるもの。
いまのところ、どの説が正しいのか、決着はついていない。しかしながら、デジャヴは実際に見た視覚イメージの脳内処理の問題にすぎず、予知とは本質的に異なることは確かだ。

「アヤカさんって、ドイツ語がペラペラなのよ」
「ウン、知っている・・」
ぼくはそう答えてから愕然とした。なぜ、ぼくはそのことを知っているのだろう。現実と夢がごちゃごちゃになってきて、ぼくはひどく混乱していた。食事を終えるとまだ昨日の疲れがとれないのか、強烈な眠気が襲ってくる。身体の芯に眠気が残っている感じだ。午後は、ホテルに帰って、ゆっくり静養しよう。
<午後、ホテルで昼寝したいんだけど・・・>
<また、うなされるんじゃない?>
<そうなんだ。それが心配>
<うなされたら、起こしてあげる。わたし、結構音に敏感なのよ>
彼女は、まだ日本にいたころ、一人下宿の部屋で真夜中に変質者に入られたらしい。彼女が物音に気がつくと、男は寝ていた彼女のタオルケットを割り箸でつまんで持ち上げていたと彼女は言う。でも、それって、すごくやばいんじゃないの・・・。無事だったそうだからよかったけど。

「ねえ、後ろの席の人。腕に変な刺青しているの。」
「え?」
「ダメよ。見ちゃ。」
彼女の言葉に後ろを振り返ったぼくを、彼女はたしなめた。
ぼくは、カメリエーレ(ウエーター)を探す振りをして、後ろの方向に目を配る。
ひとつ離れた、テーブルにストライプのシャツを着たジプシー風の男が一人で食事をしていた。
袖を捲り上げた腕に日本語らしい漢字の刺青が見える。
「坊主」。字が逆転していた。
ぼくは、全身に鳥肌が立つのを感じると同時に、ひどく長い真夏の夜になりそうな予感に襲われた。

おわり
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テーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学


悪魔のいた超高速サーキット
アイルトン・セナ・ダ・シルヴァ。いわずと知れた、天才Formula 1(F1)ドライバーだった。
1994年5月1日、サンマリノGP決勝において、イタリア・イモラ・サーキットのタンブレロ・コーナーと名づけられた超高速の左コーナーにクラッシュ、そのまま帰らぬ人になった。彼は生涯で3度のF1ワールド・チャンピオンを獲得した偉大なドライバーであったばかりか、伝説に生きた最高のドライバーであった。この物語は、グランプリ出走161戦目、34歳の若さで亡くなった事故当時から現在もなお世界中の人々を魅了してやまない男、アイルトン・セナについてのものである。

セナはブラジル人だが、その中ではマイノリティーのイタリア系移民だった。面長で色白、美男子だがどこか悲壮感の漂う印象があった。1994年5月1日午後7時45分、搬送先の病院で彼の死亡が確認された。大破したF1カー「ウィリアムズFW16」 のサスペンション・アームがBellのヘルメットのバイザーを貫通して、彼の額を弾丸のように直撃したのが致命傷となった。彼は前頭部及び側頭部の頭蓋骨を複雑骨折しており、脳器官に重大なダメージを負っていた。サスペンション・アームに使われていたCrMo系の特殊鋼は非常に強度の高い材料であるが、許容限界を過ぎると変形せずに脆性的に破壊する。もし、この破片の飛翔する軌道がほんのわずかにずれていたならば、彼はクラッシュしたマシンから這い出してこれたのかもしれない。コースすぐ右脇のコンクリート製ウォールへの激突は、第1戦、第2戦同様のポール・ポジションからスタートして6週目、現地時間で14時17分のことであった。

フォーミュラ・カー (Formula car) は、車輪とドライバーをむき出しにしたレーシング・カーの規格(フォーミュラ)にそって設計された自動車である。問題の1994年には、アクティブ・サスペンション、ライド・ハイト・コントロール、トラクション・コントロール・システム (TCS)、アンチロック・ブレーキ・システム (ABS)、四輪操舵システム (4WS)、フル・オートマチックの禁止といったハイテク・システムの搭載が禁止され、加えて最低車体重量が505kgに軽減された規則(レギュレーション)が設けられた。また、1994年の当時は溝のないツルツルのスリック・タイヤが使用されていた。セナの乗る「ウィリアムズFW16」は、前のモデルのFW14と比べるとリア・サスペンションがカバーで覆われた空力的により抵抗の少ないデザインで、その心臓部は、当時最強と言われたV型10気筒3.5cc、ルノーRS6エンジンを搭載していた。このため、シーズン前の下馬評では、いくつものレースで神業的なドライビング・テクニックを見せるセナがチャンピオン候補ナンバー1と言われていた。ところがシーズン・インすると、マシンの思わぬ欠点が現れ、セナの腕を持ってしても予選でベネトンのミハエル・シューマッハの前に出るのがやっと。前年アラン・プロストとのコンビで何度か優勝も飾っている僚友のデイモン・ヒルに至っては、シューマッハの前に出ることすら出来ない始末であった。FW16は残念ながらFW15まで続いたウイリアムズ・マシンの圧倒的速さを持ってはいなかったのだ。
それでもセナは、1994年の開幕してからの3戦ともポール・ポジションをとった。しかし、第1戦・第2戦ともらしからぬアクシデントによりレース途中のリタイヤという結果であった。これは、このニュー・マシンFW16があまりにもコントロールが難しいためであった。

セナの事故があった問題の第3戦目のサンマリノGPは、史上最悪の週末と呼ばれている。その悪夢は予選からのアクシデントで始まった。予選1日目、ジョーダンのルーベンス・パリチェロがバリアンテ・マルボロコーナーで右に振られてクラッシュ。鼻と胸部・右腕を骨折。そして予選2日目、シムテックのローランド・ラッツウェンバーガーがトサコーナー手前でフロント・ウイングがはずれ、最高速度でウォールにクラッシュ。午後2時15分、搬送先の病院で死亡。セナは事故死した彼に哀悼の意を表するため、翌日の決勝戦においては、彼のマシンのコクピットにラッツェンバーガーの母国オーストリアの国旗を用意していた。恐らく彼は、表彰台(ポディウム)で半旗を掲げるつもりであったのだろう。また、セナはこの予選で、タンブレロ・コーナーの路面の補修状態が悪く凹凸が非常に激しいため、レギュレーション違反で搭載されていたFW16のアクティブ・サスペンションの動作が不安定であり、このため路面の修理状況を大会関係者に問いただしていた。

日曜日の決勝戦レース直前に、セナはドライバーを引退してTVコメンテーターとして現地へ来ていた昨年までのライバルであるアラン・プロストと握手した。穏やかな春の日だった。そして、いよいよ決勝戦のスタート。セナは65回目のポール・ポジションのグリッドにつく。グリーン・シグナルに変わり、レースはスタートした。しかし、レースは、スタート直後から荒れた。
ベネトンのジェイジェイ・レートがエンジン・ストールを起こす。後続マシンは、このマシンを避け、間を縫って走り始る。しかし、ロータスのペドロ・ラミーが避け切れずホーム・ストレート上で追突事故を起こしてしまう。ドライバーに怪我はなかったが、クラッシュ時の破片とロータスのホイールが観客席へ飛び込み、警備員を含む観客の十数名が重軽傷した。ホーム・ストレートからタンブレロ・コーナーにかけたコース上には、事故車の部品の破片が散乱した。この事故直後、ペース・カーが導入され、その後をセナを先頭に各マシンがスロー走行する。追い越しは禁止になり、コースがクリアになるまでペース・カーは走り続けた。

セナはタイヤを温めるため、ジグザグにコース上を走行していた。すぐ後ろにはシューマッハがいる。実は、シューマッハの乗るベネトンB194には、レギュレーション違反のトラクション・コントロール・システムが搭載されていた。やがてペース・カーのライトが消えた。ようやくコースはクリアとなりローリング・スタートとなる。再スタートで、セナとシューマッハは急激にペースを上げる。3番手以下との差はあっという間に開いた。
セナはポール・ポジションから飛び出していく。ポール・ポジションからいち早く飛び出し、最初の数週で2位に圧倒的な差をつけ、あとはその差を維持するのが彼の勝利のスタイルであった。そのため、彼のレースの戦績を振り返れば、レース中の後半に記録されることの多い最速ラップ・タイムの獲得数は19回であり、彼が持つ41回の勝利数、65回のポール・ポジション数と比べると数が少ない。
セナは、コーナリングの際に他のドライバーのようにアクセルを閉じることはせずに、常に回転数を調節しながら運転した。これは進入時の安定性を向上させるとともにコーナー脱出時の早いエンジンの吹き上がりをもたらす。このセナ独特の小刻みなコントロールは「セナ足」と呼ばれ、燃費は多少悪くなるもののコーナーの立ち上がりの加速で差をつける。1989年第12戦イタリアGPでは、予選時にレズモ・コーナーにおいて、マクラーレンMP4/4・ホンダの同僚のアラン・プロストと同じホンダV10エンジンを使っていながら1000回転も高くコーナリングしていたというデータがある。

6周目からセナの乗るFW16は、リヤのライド・ハイト(ロード・クリアランス)がかなり落ちて大きくボトミングを起こすようになっていたとセナの後ろを走っていたシューマッハは語っている。
そして、運命の7周目に入った。
セナとシューマッハは、超高速・左コーナー「タンブレロ」に向かっていく。トップのセナは、マシンを5速から6速へとシフト・アップし、クローネンブルグの看板の前を時速309kmのスピードで通り過ぎた。この取り立てて難しいコーナーとは言えないタンブレロは、タイトで狭いコーナーではあるがコーナーの入り口から出口まで加速して通過していくポイントである。そして、コーナーへ進入してバンプに乗り上げた直後、ステアリングの不調でセナのマシンはコントロール不能になった。この時、FW16に搭載されたテレメトリーのメモリーは、明らかにレギュレーションに違反するパワー・ステアリングがこのマシンに装備されており、その油圧に異常があることを記録している。セナはこの瞬間にマシンの異常に気づいていた。セナのオン・ボード・カメラは、彼が頭を左に傾けて懸命にステアリングを切ろうとしている姿を克明にとらえている。
セナはコントロールを取り戻そうとアクセル開度を50%減少させた。しかし、FW16はすでにコントロール不可能な状況だった。セナはアクセルを完全にオフにしてフル・ブレーキングし、できるだけ鋭角にコンクリート・ウォールへ激突させようと必死でステアリングを回した。マシンのスピンをさせようとしたのだ。しかし、ステアリング・シャフトが破損しているために操作が不能であり、セナのマシンはそのまま直進する形でラン・オフ・エリアを越え、まるで引き寄せられるようにしてコースすぐ右脇のコンクリート・ウォールに激突した。セナの後方2番手につけていたシューマッハのオン・ボード・カメラには、セナがレコード・ラインからはずれ、コンクリート・ウォールに一直線に向かっていく様子がはっきりと映し出されている。セナはステアリングの異常を感じてから激突するまでの1.8秒の間に、211kmまで減速していた。この時のブレーキングの力、減速度は4.3G(Gravity=重力加速度)であったと言われる。ジェット旅客機が離陸する際の加速でさえ0.3Gである。かなりのGがセナを襲ったことになる。
F1マシンが300km/hで走行している時に、いきなりアクセルを戻すと1Gの急減速が起こる。普通の乗用車でどんなに激しい運転をし、胸にシートベルトの跡がついてしまいそうなほど思い切ってブレーキを踏んで急減速をしても、1Gを越えることはない。F1マシンのブレーキには軽量で高強度のカーボン繊維強化カーボンの複合材料が用いられており、ブレーキングで発生する高温の摩擦熱に耐えられる設計となっている。

運命の瞬間。激突によりタイヤが舞い上がり、様々なマシンのパーツが飛び散る。大破してスピンするFW16。跳ね返されたマシンが止まった。後ろの座席シートからセナのヘルメットがガクンッと少しだけ動いたのが見えた。しかし、この時、既にセナの意識は無かった。これきり、セナは、動かなかった。
その凄惨な光景に、しばらく現場で立ち尽くしていたコース・マーシャルによって、FW16のコクピットからセナは運び出された。事故後、コース脇に横たわる保護シートに包まれたセナを救急チームが担架に乗せると、セナが横たわっていた跡には空撮映像からでもハッキリと確認出来るほどの大きな血だまりが残っていた。TV放送していた実況アナウンサーは、「え・・?」と声にならない声を発した。ヘリで病院に緊急搬送されるも、手術の可能性は否定され、夕方、脳死状態に陥った後、心臓停止。 
この間、出来事を時系列に並べれば以下になる。

14:17 タンブレロ・コーナーに激突
15:00頃 ヘリコプターによりボローニャのマジョーレ病院に到着
15:10 脈が再開
15:50 担当医マリア・テレサ・フィランドリ女医が会見し、手術の可能性を否定
17:00 医師団による記者会見でレントゲン結果報告があり、脳死を確認
18:15 病院の司祭アメデオ・ズッフォがセナの病室へ
18:40 フィランドリ女医がセナの心臓停止確認
19:45 アイルトン・セナ死亡

セナの事故後に再開されたレースでは、ウィリアムズ・チームのもう一方のFW16、デイモン・ヒル車のパワー・アシスト装置の機能を解除して出走させた。そして、レース終了後、クラッシュ直前のマシンの挙動が問題視された。事故死かチームのマシンの整備不良等の過失責任が原因なのか司法の手による裁判が開かれた・・・。
問題の事故車FW16は、すぐに検察当局に差し押さえられた。しかし、車に搭載されたテレメトリーは、事故直後にFIAの許可を得た上でマシンを製作したウィリアムズ・チームの手に渡っており、そこで事故原因を究明が行われた。事故から2週間も過ぎてから、イタリアの検察はインターポールを要請し、フランス警察がルノー本社に出向いて押収することでそのテレメトリー・データを手に入れる。ただ、テメレトリー・ボックスはコネクターが破損しており、直接情報を取り出せなかったため、押収できたのはデータがセーブされたメモリーであった。

1997年2月20日から始まった第一審公判の被告席に立ったのは、ウィリアムズ・チーム、グランプリ主催者(FIA)、およびサーキットを運営する会社(SAGIS)から以下の6名である。
(ウィリアムズ・チーム)
フランク・ウィリアムズ チーム代表
パトリック・ヘッド チーム・テクニカル・ディレクター
エイドリアン・ニューウェー 元チーム・マシン・デザイナー
(FIA)
ローランド・ブリューインセラード FISA安全委員
(SAGIS)
フェデリコ・ベンディネッリ 社長
ジョルジョ・ポッジ サーキット・ディレクター

検察当局は、事故原因、すなわち、セナがコントロールを失った理由を、ステアリング・シャフトの破損にあると決定付けた。そして、ステアリング・シャフトの破損の原因は、ウィリアムズ・チームによる改修の不備にあるとした。また、セナが事故直前ブレーキをかけたのにもかかわらず、コース上の凹凸のために十分な減速が出来なかったとして、サーキット側の過失も問うている。

1997年10月23日の公判で、FISA安全委員のローランド・ブリューインセラードは、
「事故が起こるまでは、タンブレロやコース上の凹凸に対してドライバーからの不平は聞かれなかった。」
と反発。また、SAGISの社長、フェデリコ・ベンディネッリも
「コース上の凹凸は事故前後ともにFIAからの改修の指摘はなかった。」
「アクティブ・サスペンションの廃止が致命的な状況を作り出したのではないか。」
と、主張。

ステアリングの改修を要請したのは他でもないセナ自身である。大径ステアリングを好んでいたセナは、空力を追及したFW16のコクピット内が狭くドライビングがしづらいとの不満を持っており、常々ウィリアムズのエンジニアらに改善を要求していた。事故が発生したサンマリノGPのレース直前にも、FW16のコクピット内における足元のクリアランス確保の為、ステアリング・コラム・シャフトの位置変更とその接合溶接が行われた。セナの事故は、ステアリング・シャフトの溶接部が金属疲労により破損したことが原因とされた。

もちろん、チーム側は、これに反論する。1997年10月29日、法廷に出廷したフランク・ウィリアムズは事故原因がステアリングにあるという主張を否定した。
「我々は真相を求めている。事故後テレメトリーを調べ、何度もシミュレーションを行った。その結果、我々はステアリング・コラムは破損していなかったという結論に至った。」
「当時マシン全体をチェックし問題はなくOKがでたのを覚えているが、ステアリングの接合溶接を行うことを決めた。」
ウィリアムズF1チームの共同創設者であり、同チームのエンジニアリング・ディレクターのパトリック・ヘッドは、「裁判当初、私が一つ気になっていたことがある。それは事故当時の走行記録システム(テレメトリー)にはステアリングが機能していたと記されているのに、その後の調査員の報告書では、セナがコースを外れたのは恐らくステアリングが操作不能になっていたからだと結論付けていることだ。」と、語っている。しかし、2週間にわたって、テレメトリーの提出を遅らせ続け、最後には強制的に押収されるという事態の後では、事実は闇の中と言うしかない。

もともと、この裁判は不毛な論争に終始する構造にあった。あまりにも物理的な証拠と証言が食い違った。しかも、裁判は事故原因の追究ではなく、事故の責任の所在を問う形で行われた結果、事故原因の真実が明かされる機会が永遠に失われてしまった。結局、この裁判では、32回の公判に末、同年12月16日に被告6名全員に過失致死罪にはあたらないとして、無罪の判決が下された。1999年には控訴が行われたが、棄却され元の判決が支持された。その後、2003年にイタリアの最高裁が“重大な誤り”があったとして、控訴審の判決を取り消し、審理がやり直されることになる。パトリック・ヘッドとエイドリアン・ニューエイが、再び裁きの場に立たされ、イタリアのモーター・スポーツの将来も試練にさらされることになった。F1が再び裁かれるということで、世界に動揺が走った。

2005年5月27日。セナの事故死の原因が問われていた裁判が11年目にしてようやく終わりを告げる。罪に問われていたのは、当時ウィリアムズのチーフ・デザイナーを務めていたエイドリアン・ニューウィー、及びテクニカル・ディレクターのパトリック・ヘッドの2人。ニューウィーは無罪、ヘッドは出訴期限法により期限切れという結末。事故の真相は分からぬままである。

当初から指摘されていたステアリング。セナの希望でカスタマイズしたステアリングのシャフトの破断から操作不能に。あるいは、事故の前にセーフティー・カーが入ったため、スロー・ペースでタイヤの内圧が下がった上に、更にレギュレーション違反のアクティブ・サスペンションの油圧ダンパーの故障でライド・ハイト(ロード・クリアランス)がゼロになり、バンプでマシン下部をすった際に、マシンの下を流れる空気が遮断されてコントロール不能に。他には、事故後に見つかった、ギア・ボックスの固着。激突してない左リア・サスペンションの破損。様々な事故原因に対する説がある。

1994年シーズン途中から、サンマリノGPのローランド・ラッツェンバーガーとセナの死亡事故、その後のモナコGPのカール・ヴェンドリンガーの重傷事故を受けて、安全向上対策のためレギュレーションの変更があった。フロント・オーバー・ハングのサイズ縮小(ボーテックス・ジェネレーターの禁止)。ディフューザーのサイズ縮小。スキッド・ブロックの追加。ピット・ロードのスピード制限(120km/h)。エア・ボックス部分に穴を設置(ラム圧の低減)。最低車体重量520kgの制限である。

セナ以前にF1GP中(テスト、他カテゴリーのレース中等は除く)に事故死したF1ドライバーは23人。
1954年ドイツGP - ニュルブルクリンクで開催されたドイツGPの予選において、マセラッティのオレフノ・マリモンの事故死をはじめに、1970年代は8人と年々増加の一途をたどった。しかし、事故を防止するための種々のレギュレーションの設定や、軽くて機械的な強度の高いカーボン繊維強化プラスチック(CFRP)・モノコックの採用など材料面の進化から、死亡事故は80年代に2人まで減少した。そして、悪魔のいた超高速サーキット、1994年のローランド・ラッツエンバーガー、セナと続く。F1とは、元来、危険なスポーツである。そう認識すべきであろう。

1994年から11年続いた裁判で、人類は何を学んだのだろう。また、1審から最高裁へとウィリアムズ・チームが勝ち取ったものはなんだったのだろう。そして、検察側は結局何を主張したかったのだろう。
また、我々はこのセナ裁判になにを期待したのであろうか?2~3人のスケープ・ゴートの作業ミス、あるいは設計ミスに起因する事故原因の特定?高速のカーブのドライビングにおける空力工学的な知見?あるいは溶接材料の材料破壊力学に関する情報?より安全なヘルメットに関する知見?F1の巨大なショー・ビジネスにおけるマネー流通の詳細?

結局は、事故の原因はセナのドライビングミスのせい・・・・。
こうしているうちにも、F1自体は何事も無かったように毎年開催され、続いていく・・・。
恐らく、人類が生存競争という本能があるかぎり、人類が最後の一人になるまでモーター・スポーツは続けられていくのであろう。命を賭けた限界への挑戦は、人類の宿命なのだ。そして、2~3人の天才と呼ばれるドライバー達が、同じようにデッドヒートを繰り広げ限界に挑戦し、人々はそれに熱狂する。ネルソン・ピケとナイジェル・マンセル、セナとプロストの熾烈なチャンピオン争い。ミハエル・シューマッハに「最高のライバル」と言わしめたミカ・ハッキネン。歴史は繰り返すのだ。
そして、起こるべくして事故が起こった時、我々はやれやれと頭を振る。我々は人類である限り、こうした過剰な競争による事故は避けられないものと知りつつ、その人類が背負った宿命を呪うのだ。我々はここから決して逃げることはできないのだと。この意味で、イタリアでの裁判は、人類の持つ特質まで踏み込んだ裁判であったと言うことができる。セナの事故は、人類がいつの時代においても戦いの中で進化していく生物であるがゆえに、我々に課せられた避けられない宿命に起因するものであったと・・・。そして、これがイタリアではなく、アメリカや日本での裁判であったのなら、結果は異なり、マシンを構成する材料や空力フォルムに帰着していたかもしれない。その意味で、何ももたらさなかったイタリアの裁判は、皮肉にも人間の本質に迫るものだったと言ってよい。

セナの亡骸は、ブラジル・サンパウロ市にあるモルンビー墓地に葬られた。墓碑銘は「NADA PODE ME SEPARAR DO AMOR DE DEUS(神の愛より我を分かつものなし)」。
「レースをやっていると、人間とはいかに脆い存在かということがわかってくる」。生前のセナの言葉だ。

おわり

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