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tetujin282828

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「サッカーの神様」と呼ばれたくなかった男
1.二枚目のイエローカード

国立競技場に詰め掛けた5万6000人を越すサポーターが見守る中、その男は、ゴール前11mに置かれたボールに向かって歩き出した。
”なんであれがファールなんだ”
抗議が受け入れられず、激した感情を今も押さえることができなかった。
”もう、終わりにする。”
”もう、サッカーから足を洗ってブラジルに帰る。”
男の足取りは、その意思をはっきりと表していた。
対戦相手の緑のユニフォームを着たベルディ川崎のFW選手が、PKを蹴ろうとしていた。味方の赤のユニフォームを着たブラジル国籍のボランチが、そのボールに対してちょっかいを出しに行く。それを抑えて、ジーコは躊躇なく歩み寄りかがむと、Jリーグのマークを付けたボール横のピッチにつばを吐きかけた。その瞬間に主審の笛が高く鳴り、前半と合わせて2枚目のイエローカードを突きつけらた。
ジーコは、主審へのあざけりの拍手を送りながら、空っ風の吹きすさぶJリーグ元年の最後のピッチを去っていった。

2.絶頂から奈落の底へ

そのときジーコは、絶頂から奈落の底へ突き落とされた76年のバスコ・ダ・ガマとグワナバラ杯の優勝をかけたシーズン最後の試合を思い出していた。その年、ジーコはフラメンゴで56得点を上げ球団記録をつくった。この年に初めて選ばれた代表では11ゴールを挙げた。絶頂にいたジーコ。そこに落とし穴が待っていた。これを決めれば勝つ、というPKをジーコは外した。その瞬間、スタジアムは恐ろしいほどの静寂に包まれた。
「その静寂が叫び声に変わったとき、私は胃をわしづかみされたような、苦痛と脱力感に打ち震えた。チームやサポーターに対する責任から、私はすぐここから逃げ出したかった。絶望とはこういう気持ちを指すのだろうか。更衣室に戻ると、悔しさと情けなさで大声をあげて泣いた」
ジーコは、この時のことを自伝にそう書いている

3.衝撃

「そうしてまでジーコは勝ちたいんだ」。
その瞬間に、彼がJリーグ初代王者を本気で望んでいることがはっきり見て取れた。
1993年のJリーグ元年で、誰もが記憶するあの瞬間である。多く人が期待を胸に見守り続けていたJリーグ初年度で、サッカーという華やかなスポーツに潜むとんでもない毒に気付かされた瞬間である。名古屋グランパスエイトとの開幕戦ホームゲームで、ジーコのハットトリックとアルシンドの2ゴールの5-0で華々しくスタートしたジーコのJリーグ神話が砕け散った瞬間だった。それまでのサッカー観戦は、正月に行われる高校サッカーがすべてであり、実業団の大会なんてテレビ中継すらなかった。
確かにジーコは、相手がミスをする可能性があれば、違反すれすれのことを何でも実行した。それがプロであるのなら、当然ということだ。敗者に明日はない。
そうした泥臭い行動を、サッカー発展途上国の日本でして見せたのだ。Jリーグの試合には、彼のこれまでの数々の名声を捨ててまで勝ちにこだわったのが衝撃的だった。

4.タブー

試合後、ジーコはプレスにまくし立てた。
「レフェリーが川崎のユニホームを着ているようなものだ。あの反則でPKはないだろう」「ボールへ寄ったのは、ひとつのジョークさ」・・・。
そして日本中の非難を浴びることになった。
「あれは審判に対するジーコの抗議だ」。「レベルの低い日本サッカーへの侮辱だ」。そんな声もサッカー経験者から多く聞かれた。いまでも憤りを忘れないサッカーファンは多い。当時チェアマンだった日本サッカー協会川淵会長は「日本で一番怒った」とその年のオフで述べている。
そして、このジーコの事件はこれ以降、タブーになっている。川淵会長がジーコを日本代表監督に決めてから、そして日本代表監督を退いた今でも、関係者はその事件に触れるのを回避する

5.弁明

調べてみると、この事件以降、2~3の雑誌が記事にしたのみであった。それによれば、
「あんな不可解なジャッジで負けるのはどうしても許せなかった。行為自体は褒められたものでないし、十分に反省している。しかし、私がつばを吐いたのは、あのPKに対してだけではない。これまで鹿島に対して不利にはたらいてきたこと、審判の公平とレベルアップ、日本サッカーの発展のため、すべてに対して反発したかったのだ。
日本ではヴェルディ、マリノスといった人気チームばかりに有利なジャッジが下される。中でもヴェルディに対するものは目に余る。サッカー協会内部に、代表選手を多く抱えた人気チームを優勝させることが、Jリーグを盛り上げると考える勢力がある」
「25年に及ぶサッカー人生の中で、私は審判とのトラブルで一度も退場させられたことのない選手だということを、知っていてほしい。そんな選手が、なぜあんな行為に出たか、そのことをもっと深く考えてほしい」
とジーコは語っている。

6.貧しさの中で
ジーコについての情報をもとにあの試合を振り返り、真相を追ってみる。
本名、「アルツール・アンツネス・コインブラ」。ペレと同じく、”ジーコ”は本名ではない。南米では、名前が長かったり、同じ名前が多かったりすることから、本名ではなくニックネームで選手登録することが多い。ジーコの他に、ブラジルのフラメンゴ時代や代表時代、また鹿島アントラーズ時代の選手・関係者間ではガーロ(galo)というニックネームで呼ばれている。その意味は雄鶏で、フィールドの真ん中に堂々と君臨する雄々しい様と、試合中に興奮して叫ぶ声の高さから来ていると思われる。

父がプロのゴールキーパー、3人の兄も皆プロサッカー選手というサッカー家族の中で育ち、幼い頃からストリートのクラブでサッカーに明け暮れる毎日。彼は13歳で狭き門を勝ち残り、リオの強豪チーム、フラメンゴのユースにテスト入団した。当時の彼の実家は貧しかった。ジーコの自宅があるキンチーノから、フラメンゴの練習場があるガビアまで、バスで2時間かかったが、
「毎日の交通費と食費の問題だった。仕立て屋の収入だけでは、練習場に行く私の往復のバス代さえ、家計の大きな負担となっていた」
と、ジーコは自伝の中でこう書いている。

7.栄光と挫折

フラメンゴ入団後、ジーコは弱点であった体を本格的に改造し始める。医学的な筋トレかと食事改善で、やせっぽちの体を強靱なものに変えていった。そして18才の時、対バスコ・ダ・ガマ戦で1軍でのプロデビューを、23才ではブラジル代表デビューを果たす。この頃からフリーキックの名手として人々に記憶を残していく。また78年のW杯で、ジーコはペレから続くブラジルのエースナンバー”10”を引き継ぐこととなった。
ジーコが活躍した当時のブラジル代表には才能溢れる選手が沢山いた。その中でジーコが際立って目立ったのは、「ボールを持てば何かを起こせる」選手であり、一瞬でチャンスを創り出す力を持った選手であったからである。82年スペイン大会でのアルゼンチン戦とイタリア戦、86年メキシコ大会のフランス戦でのスルーパスは伝説とされている。

82年のW杯。ブラジルは最強軍団だった。「黄金のカルテット」と呼ばれたソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾとジーコの4選手がそろっていた。しかし、ブラジル代表は残念ながら、準決勝でパオロ・ロッシ率いるイタリアに敗れてしまう。

30才の時にイタリアのウディネーゼへ移籍。リーグ最高得点率をマークし、その年の世界最優秀選手に選ばれる。しかし翌年、ジーコを不運が襲う。試合中、左膝にタックルを受けて重傷を負ったのだ。ジーコはその後この怪我に苦しめられ、何度も手術を繰り返すこととなる。86年、準々決勝、フランスvsブラジル。
途中出場したジーコが自らのスルーパスで得たPK。
しかしジーコはこの時も外してしまう。
このジーコの最後のW杯でも怪我のために十分な活躍ができず、ブラジルはベスト8で敗退。結局、ジーコは一度もW 杯を 手にすることはできなかった。


9.弱小国へ

選手としてのピークを越えたと感じた彼は、37歳の時、90年2月に引退する。フラメンゴマラカナンスタジアムで333ゴールをあげたジーコは同スタジアム53年の歴史の中での得点王であった。引退後は、初代のブラジルスポーツ庁大臣に就任。
しかし、1年後、Jリーグの開幕を控えた日本サッカー界から要請を受け、ジーコはサッカーの普及と改革のため日本にやってくる。そして、当時、2部リーグに甘んじていた住友金属蹴球団に入団する。
ブラジルスタイルの抜群のテクニックを持ち、ドリブル、パス、シュートの三拍子を持ち合わせたジーコの右足から繰り出されるパスの正確さは世界最高で、前線を動き回る選手、背後から飛び出す選手を問わず、絶妙のタイミングで正確無比なパスを出した。得点能力という点ではFWを凌駕するほどで、FWの後ろから飛び込むダイレクトプレーを始め、常に得点を狙う攻撃的MFの教科書的な存在であった。ジーコのスーパープレイは、他チームの選手を翻弄した。そして、住友金属蹴球団は念願だったJリーグ加盟を果たした。「鹿島アントラーズ」と改称し、プロチームとして新たなスタートを切った。

10.再びスパースターへ

当時、エースであるジーコには相手選手の何人もの激しいプレッシングに合い、結果ボールを回さざるを得なくなることも多々あった。しかし、ジーコはボールをそのまま下げるよりむしろ無理な体勢からでも相手バックラインの隙間を狙ったスルーパスを狙い、走り込んだFWやサイドMFへのアシストを決めていた。
彼の得点率の変遷を見れば、フラメンゴ 0.69 (508得点)、ウディネーゼ 0.69 (56得点)、鹿島アントラーズ 0.61 (54得点)、総合計 0.70 (826得点) である。ジーコがブラジルから連れてきたFWのアルシンドのJ1リーグの通算得点率が 0.67(84得点)であるから、MFとしていかに得点率が高いかわかる。

93年のJリーグ元年の開幕時には、ジーコのみならず、リネカー、ストイコビッチ、ラモン・ディアスやスキラッチ、ストイチコフらワールドカップの得点王。また、ストイコビッチ、ファネンブルク、ブッフバルト、ハシェックら欧州の一流選手やブラジル代表からは、レオナルド、ジョルジーニョ、ジーニョ、ドゥンガ、ジウマール、後にはベベットまで大物サッカープレーヤーが来日した。カレッカもいた。韓国からもホン・ミョンボ、ファン・ソンホン、ユン・サンチョル、アン・ジョンファンら代表の主力選手がやってきた。こういう選手たちの技量やプロ意識が、サッカー発展途上国である日本の同じチーム、あるいは対戦相手の日本人選手たちのレベルを引き上げることに寄与したのは間違いない。そして、ジーコの率いる鹿島アントラーズはJ1リーグの第一ステージで優勝する。

11.初年チャンピオンシップ

その年のチャンピオンシップは、第1ステージで優勝した鹿島アントラーズと第2ステージ優勝のヴェルディ川崎で年間優勝チーム決定戦として行われた。
94年1月9日に国立競技場で行われたチャンピオンシップ第1戦は、前半27分に、鹿島奥野の背後からのチャージを誘う独走ドリブルで、奥野は退場。キックオフから鹿島に傾いていた流れが川崎に変った。後半15分、川崎の三浦知良(カズ)がビスマルクのアシストを得て先制ゴール。2点目はロスタイム近くで三浦知良がアシストしたビスマルクのゴールで鹿島を2-0と下し先勝しチームの初代王座に王手をかけた。第2戦は7日後の16日、国立競技場で行われるが、1点差で負けても優勝となる川崎が断然、優位に立った。このゲーム、ジーコは体力温存のため出場していない。また、ゴールを決めた川崎のカズは、後半29分。武田修宏がもらったPKを外している。
そして、1月16日の第2戦。国立競技場には5万6000人を超すサポーターが集まっていた。快晴。万全を期してジーコが出場した試合はまたも荒れた。試合が始まって、たびたび川崎のビスマルクが体を入れて、ジーコや本田泰人にヒジ打ちを食らわせた。そのたびにジーコが激しい口調でビスマルクを責める。
「若造が何をする!」
ジーコの怒りはジャッジにも向けられた。アルシンドに対する川崎のファウルは見逃された。川崎のゴールキーパーが、エリアの外で手を使ったのに、審判は反則を取らない。ジーコはイライラを募らせた。
鹿島は、ジーコが居るからか第1戦とは違い、かなり強い攻撃で攻めた。いつもの川崎ならこれをしのいで後半決めて逆転勝ちという常勝パターンなのだが、鹿島はサントスを中心に守備が良かった。鹿島のゴールキーパー古川は、背中で鹿島サポーターの声援を聞きながら奇跡的な好セーブを開始直後から見せた。前半14分、北沢豪の強烈なシュートを防ぐ。33分にも北沢のシュートを、38分にはカズの、いずれもノーマーク状態からのシュートを阻止した。

鹿島の先制パンチは、FWアルシンドのシュートだった。前半38分、杉山のFKから秋田が頭でつないだボールを胸でワントラップし、すぐさまボレーでけり込んだ。2人のDFがマークに入っていたため、シュート時が一瞬遅れれば、ゴールにはならなかっただろう。ジーコがそう動けないだけにアルシンドは縦横無尽に動いて、速い、小刻みな攻撃を繰り返した。

12.空振り

前半を1-0でリードして、ジーコはハーフタイムでゲキを飛ばした。
「オレたちは勝てる」
後半3分。川崎ゴール前を横切ったボールがジーコに飛んだ。ちょうど86 年ワールドカップ南米予選、パラグアイ戦の2点目に状況は似ていた。その時はタイミングがあわないボールをヒールで浮かし4歩前に出てキーパーの左に伝説のゴールを決めた。しかし、93年のこの時のジーコはこれを空振りする。ダイレクトでシュートに持ち込もうとして、バックステップして飛び上がり、インサイドで合わせたつもりだったがボールは通り過ぎた。
勝負事にタラレバは禁物である。しかしながら、このプレーが決まっていれば第1戦での失点をゼロにできる。そうすればチャンピオンシップの行方はどうなっていたかわからないと考えてしまう。少なくとも,ジーコが退場する場面はなかったであろう。
後半36分。ペナルティーエリア内で鹿島の賀谷英司がファウルを取られる。賀谷と川崎のパウロが交錯。オブストラクションで、間接フリーキック。複数の評論家がそう指摘した微妙なプレーだった。が、主審の高田静夫は川崎にPKを与えた。ジーコの猛抗議は退けられた。川崎は第1戦でPKをはずしたカズがセットした。残り時間10分を切った。ここで同点にされたら、鹿島に優勝の目は消える。
そのときだ。ジーコがつかつかとボールに寄っていき、つばを吐いた。高田静男主審は即座にイエローカードを切った。この試合2枚目。ジーコはあせっていた。ジーコは退場となった。高田主審は、とにかく偏ったジャッジをすることで有名であった。

13.涙はいらない

ジーコは、飛躍的に向上した日本サッカー文化への貢献とネームバリューから、日本では「サッカーの神様」と呼称される事も多い。ただしジーコ自身はカトリック教徒であるため、日本の宗教観念を理解してはいるものの、この呼称を好ましくは思っていない。
Jリーグは、この後日本経済のバブルの崩壊とともに大きく変遷してゆく。

“去り行くものは喜びと共に
又 その偉大な功績と共に
それゆえ 涙はいらない
黄金の雄鳥のラストゲームに
泣くなジーコ
人々の胸に永遠にいて
さよならの言葉を口にする必要はないのだから“

この歌は1990年2月6日マラカナンでのジーコの引退試合の時に、大勢のサポーターによって歌われた歌である。ジーコはひょっとして、あのゴール前の空振りの時に、引退を考えたのかもしれない。Wカップでの敗退に始まり、あと、もう少しのところで、何度も勝利を逃しなが・・・。94年前節をプレーして、僕にとって不運な神様ジーコは現役選手から引退した。

「ブラジルでは、いま刑務所が囚人でいっぱいなんだけど、そこにいるのは生きるためにしかたなく犯罪に走った人間ばかりなんだ。日本では1日に3食を食べることは別に難しいことじゃないだろう。ところがブラジルには、1日に1食がやっとだったり、子どもたちに十分なものを食べさせることができない人がたくさんいるんだよ。彼らには“死ぬか、盗むか”の選択しか残されていないんだ」
とジーコは日本へ着たばかりの頃語っている。 

(FIN)

この物語に登場する人物、組織は架空のものであり、実存する人物・組織とは一切関係がありません。m(_ _)m

あとがき(サッカー版ロシアン・ルーレット)

ワールドカップで15分ハーフの延長戦で決着がつかない場合、PK戦での決着が導入されたのは1982年のスペイン大会からである。準決勝の西ドイツ対フランス戦。1対1で迎えた延長戦で、一時は1対3と離された西ドイツが、3対3に追いつき両チームは初めてPK戦を迎えた。サッカー版ロシアン・ルーレット。
結果的にPK戦で5対4で勝者は西ドイツとなった。これ以降西ドイツ(統合ドイツ)はワールドカップのPK戦をすべて勝利している。
一方、イタリアはワールドカップ本大会での過去3度のPK戦でいずれも敗れており、ようやく今年、2006年のワールドカップドイツ大会で初めてPK戦で勝利している。
また、この2006年ドイツ大会の準々決勝ポルトガル対イングランド戦では、0-0のまま試合が進み、PK戦に突入する。PK戦ではポルトガルのヴィアナ、ペチート、イングランドのランパード、ジェラード、キャラガーが失敗。結果、3-1でポルトガルが準決勝進出を決めている。イングランドは、1990年のイタリア大会での準決勝西ドイツ戦でも、1-1で迎えたPK戦を3-4で敗れており、まだ、PK戦に勝っていない。

ぼくの中で最も印象に残るワールドカップの記憶は1986年メキシコ大会、準々決勝、フランスvsブラジルである。
試合は17分のブラジルのFWカレカ、ハーフタイム直前のフランスはプラティニのゴール。1ー1で、延長でもお互い譲らずPK戦に持ち込まれるが、そこまでには伏線がある。
途中出場したジーコが正確なスルーパスでブランコをうまくゴール前に送りこむ。バツがゴールから飛び出してきてタックル。ルーマニア人のレフェリー、イオアン・イグナがペナルティスポットを指さす。自らのスルーパスで得たPK。プラティニはゆっくり歩み寄り、ジーコの神経を逆撫でする。 そしてジーコはこれを外してしまうのだ・・・。

試合はPK戦に。
最初のキッカーは、ブラジルのソクラテス。ぎこちない足取りでボールへのアプローチを短くとる。しかし、バツはこぶしで弾き飛ばす。ストピラのシュートはゴール中央右よりに突きささる。ブラジルのアレマオのキック。ゴール左に突きささる。次はアモロス。ゴールに沈めた。そして、ジーコの登場。激情の一撃。次のフランスのベローヌのボールは、ポストを外してオスカーの頭にヒットし、そのまま転がり込んでゴール。エジーニョが異議を申し立てるが、レフェリーのイグナに却下される。3ラウンドが修了した時点で3対2とフランスがリード。
ブラジルのブランコのキックも決まり、次はプラティニ。待っていたのはプラティニの悲劇であった。プラティニのボールは高々とバーを越えて大きく外れる。頭を抱えるプラティニ。 しかしその直後、ブラジルのフリオ・セサルのシュートはポストを叩いて跳ね飛ばされる。

これで3対3とイーブン。次のフランスのフェルナンデス。オスカーがゴールラインへ時間をとって戻る。ボールの前で足踏みをし、キッカーを待たせる。フェルナンデスは右にゴールネットを揺らす。 瞬間、フランスは狂喜に包まれた。
結局、フランスチームは、ブラジル戦をPK戦で制したものの、準決勝で西ドイツに敗れる…。

ぼくのベスト2。1994年アメリカ大会、決勝、イタリアvsブラジル戦。史上初となるPK戦での決着。
過去にワールドカップを3度ずつ制しているブラジルとイタリアの戦い。そんな夢の顔合わも試合としては盛り上がりに欠け、両者無得点のままPK戦へ。
だらしなく着くずしたジャージ、同じ10番を付けたかつてのフランスの物憂いで横柄なプラティニを思い出させるバッジオ。彼が蹴ったボールの軌道は、プラティニのそれと全くもって同様の放物線を描いていった・・・。
この大会は「バッジオで始まり、バッジオで終わった。バッジオのための大会」と、まで言われ「悲劇のヒーロー」に祭り上げられている。
「PKを外してこそ記憶に残る」は彼のセリフ。





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